本棚を見ればその人がわかる、と言われることがある。

「読書力」齋藤孝著より。
このフレーズに出合った時に、思わず自分の本棚を眺めてしまった。するとその約半分は本以外のものが置かれているではないか。むしろ本棚というより収納庫にさえなっていたのだ。他人に見られたらきっと恥ずかしい。
本以外には、花の種や木が入った実ガラス瓶10個ほど、今はほとんど使わなくなったフロッピーディスク、CD−ROM、ビデオテープ、USBメモリー、CD、スプレー(塗料)、クリップ類、書類袋、受け取った年賀状、小さなお土産類・・・。
それにしても、純粋な本棚にはなっていないことにも気づく。そして、本や雑誌などはいまだにベッドの横にどっさりと積まれているのだ。文庫や新書などはほとんどはそこにある。辞書類もそこに積まれていた。
本棚には小説類や雑誌は一冊もなかった。一度読んだらもう二度とは読まないことが多いから屋根裏の倉庫に置いてしまったのだ。いま目に入るのはほとんどが実用書のようなものばかり。古くても捨てられない本もある。
筆者は、その人自身の考えを直接聞くよりも、読んできた本のラインナップを眺めさせてもらえれば、おおよその見当がつくという。それは友達をみれば、その人がわかる、というのと同じ意味らしい。
その「見当がつく」とは、その人がどんなことに関心があったかや教養の程度であろうか。そこに並んでいる本によって、今までどんな世界を広げてきたかもうかがえる。年齢によって関心の変遷がわかって、自分でも興味深いものでもあるな。

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本を自分のものにするためには、線を引きながら読む方法は効果的・・・
「読書力」齋藤孝著より。
動いている電車やバスの中では本に線を引くのは、ちょっと面倒なのでせいぜいページの角を折ったりはしている。そして、もう一度読み返して線を引くことはある。
ということは、人や図書館から借りたりした本ではそういうわけにはいかない。以前何度か、図書館で借りた本には付箋を付けながら読んだことはあるが、それも実に面倒くさいものだった。あとから外す手間暇もかかる。
どんな本でも自分が買った本なら気楽に線を引いたり、書き込みもできる。
齋藤氏は、どこに線を引こうかと考えながら読むことで、読みは積極的になると述べている。そのことで、後で再度読み返す時にはそこだけ目を通せば、時間が経っても内容を思い出せたりもするもの。
逆に何も線を引けなかった本は自分にとってはあまり価値がなかったのかもしれない。共感できる箇所が多いほど線は多い。とにかく、借りた本には線や書き込みができないつらさがある。
当然ながら、ほとんどの本は書き込みがあるからブックオフには売れない。結果的には「紙ごみの日」に出すことになる。手放す順はやはり小説類が先かもしれない。中には二度と読まないかもしれないが捨てらない本もあることは確かだが。

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会話をクリエイティブにするには、自分の思考と相手の思考とを混ぜ合わせることが必要。

「読書力」齋藤孝著より。
しばしば、自分の得意分野の話だけしてしまう人がいる。相手が関心があるかどうかよりも、自分が話したいことを優先してしまう人は、空気が読めない人だろう。
本や雑誌を読む場合なら、自分が関心がなければ飛ばしたり、本を閉じてしまえばいいのだろうが、会話の場合は難しい。人の話を聞いている場合はその反応の仕方が難しい。適当にうなずけば、相手は理解ているものとして話は止まらないこともある。
また相手と話が弾むときは、同じ内容のことを違う言葉で言い換えたりできる場合が多い。「要するにそれはこう言うことだね」といえば、うなづいたりするものだ。
齋藤氏は「言い換え力」は、コミュニケーションの中でも基礎的なものの一つだと述べていた。その言い換えができるためには、語彙が豊富でなければならない。それを効率的に鍛えるのが読書ということになるようだ。
そのためには、あまりかたよったジャンルの本ばかりではよくないのだろうな。実際読んで理解できた場合とそれが使えるのばまた別問題だとも思えるが、まずは知ることがスタートかもしれないな。
クリエイティブな会話ができた時は、有益な時間を過ごした気持になるものだが、最近そんな時間は過ごしていなったかも。明日は少しでもそんな時間を持ちたいもの・・・だな。

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話し言葉と書き言葉の関係はピンポンと卓球の関係に似ている・・・
「読書力」齋藤孝著より。
このフレーズも実に強引だが面白い!つまり温泉場にはよく卓球台が置いてあって、そこで風呂上がりにやるのがピンポンだったのだ。しかし「卓球」ともなるとレベルが高いものをイメージしていたのだ。
ピンポンの音はポ〜ン、ポ〜ンというリズムで、卓球はカンカンカンという速いテンポのラリーが続くものだというたとえもわかりやすい。
話し言葉はピンポンなら、書き言葉は卓球にあたるという。つまりピンポンは大して練習しなくても遊びとして楽しめるレベルで、卓球はしっかり基本の練習をしないと試合にならないということなのだろう。
誰でも小中高と学校に通っていれば、ある程度のことは話せるものだが、しっかり書くことはそうそう簡単ではない。たとえば、いきなりあるテーマで小論文を書いて下さいと言われたら緊張して書けないだろう。
やはり練習が必要なのだ。読書をたくさんするというのは、卓球部に入るのと事情が似ているようだ。意識的な練習(読み、書き)があって、初めて技は身についていくものだな。


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「最近何かおもしろい本読んだ?」
「読書力」齋藤孝著より。

“おもしろい”本とは、ある意味自分にとってためになった本、参考になった本ということだろう。“面白い”本はその時だけ楽しい娯楽本ということになるのだろうか。勝手な解釈だが。私の場合、おもしろい本ほど線を引くページ数も多く書き込みも多い。
齋藤氏が大学時代はこの「最近何かおもしろい本読んだ?」が何気ない挨拶のような言葉だったらしい。私などほとんど本を読んだ覚えがなかった。むしろ、中学生ごろにはいろいろ読んでいたかもしれないが。
齋藤氏は今大学で教員をしているが、学生たちには「会ったら挨拶代わりに、今読んだばかりの本や読んでいる本の話を必ずするように」と言っているらしい。それは自身の経験から有益だったからだろう。
読んだ本のことを人に話せるということは、しっかり理解できたという証拠だろう。自分が楽しめた本については人に話したくなるものだ。人に話すことで自分の記憶にも残りやすくなる。
「最近何かおもしろい本読んだ?」は自分に問いかける言葉でもあるかな。まず自分が幅広く読んでいなければ人にも聞けないか。今ならたくさんのフレーズが気になったこの「読書力」を挙げてもいいかな。