「読書力がある」ラインとは「文庫百冊・新書五十冊を読んだ」という

「読書力」齋藤孝著より。
「読者力」というのは今までまったく聞きなれない言葉だった。よく趣味としての読書なら普通に耳にしている。好きな推理小説なら今まで数百冊は読んできた。だからと言って「読書力」がつくわけではなかった。
文庫本といっても、完全な娯楽本や推理小説などは除いている。イメージとしては「新潮文庫の百冊」のようなものらしい。そして、筆者は「力」を「経験」という観点から捉えて冊数の基準を設定していたのだ。
この本の後ろのほうに、筆者のおすすめブックリスト(文庫百冊のタイトル)が掲載されていた。例としてその一部を書いておこう。「O.ヘンリー短編集」、「ハツカネズミと人間」スタイン・ベック、「新しい人よ眼ざめよ」大江健三郎、「白洲正子自伝」、「考えるヒント」小林秀雄、「宮本武蔵吉川英治、「天平の甍」井上靖、「五重塔幸田露伴、「破壊」島崎藤村、「沈黙」遠藤周作、「菊と刀ルース・ベネディクトカラマーゾフの兄弟ドストエフスキー・・・。
こう並べてみると、ほとんどタイトルは知っていても、読んだことがなかったか、読んでも内容はほとんど忘れているものだった。百冊のうち読んだことがあるのは数冊だけだった。
齋藤氏はどんな本でもいいというわけではなく、「精神の緊張を伴う読書」というものを想定していたのだ。そう考えて自分の読書を振り返ってみれば、古典や名作文学といったまともな本を読んでいなかったことに気づく。
また筆者は「読書力がある」とは読書習慣があることだとも述べていた。この部分では、確かに空いた時間があれば、何か読んでいないともったいないとも思っているかも。(といっても、ほとんどが軽い娯楽本だったか・・・残念!)

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ある程度質の高い知識情報がコンパクトにまとめられている・・・
「読書力」齋藤孝著より。
これが新書の性格だという。文学系とは異なって、知識や情報、時にはノウハウなどを学ぼうとするときには親書は役に立つ。
この数年は新書ブームとは言われているが、ここに齋藤氏が馴染んだ岩波新書の例があった。「万葉秀歌」斉藤茂吉、「ミケルアンヂエロ」羽仁五郎、「世界文化史概観」ウェルズ、「日本美の再発見」ブルーノ・タウト「物理学はいかに創られたか」アインシュタイン、インフェルト「禅と日本人」鈴木大拙・・・。
こんなタイトルを眺めただけでも内容が硬そうでレベルも高そうだ。親書は現在は学生が読むものではなく、三十代かた五十代までの男性が中心らしい。
私自身も学生時代には卒論を書いた時以外は、ほとんど新書を読んだ記憶がない。むしろよく読むようになったのは、四十代以上になってからだろうか。それ以後は五十冊以上は読んでいるだろう。とは言っても、今読んでいるこの「読書力」みたいな軽い新書ばかりだが。
齋藤氏は短期間のうちに数百冊の新書にのめり込んだというが、どれも素晴らしい栄養のある食物に感じられたと述懐している。自分もこれからは少しでも栄養価の高い新書に巡り合いたいものだな・・・

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本を読んだというのは、まず「要約が言える」ということ・・・
「読書力」齋藤孝著より。
これは齋藤氏の基準だった。確かに、しっかり読んでいれば「何がどうだったか」は言えそうだ。またその要約の中に具体例が含まれていれば「その本は読んだ」と言えるようだ。
今までも何百冊かは読んできたはずだが、そのすべての内容などは忘れている。よほど感銘を受けたりしないと、読後の賞味期限は短いだろう。単に字面を追って、一冊読めばそれだけで読んだ気になっていることが多い。
よく旅行した者どうしが話していると、「ああ、そこへはもう行ったよ」などとはよく聞く言葉だ。読書も似たり寄ったりで、「もうその本は読んだよ(読んだことはある)」とも言ったりするもの。しかし、ちゃんとその要約を言えるかどうかはまた別問題なのだろう。
齋藤氏は一冊を最後のページまで読みとおさなくても、半分以上読んで内容が把握できていればそれでも読んだといっていいという。内容を人に話せれば、他の人にも役に立ち、自分の記憶にも残りやすいだろう。
新書は要約力を鍛えるのに向いていると、齋藤氏は言う。いま書いている「ちょっと気になるフレーズ」も自分が少しでも覚えておきたいと思った部分を拾っているだけだ。(でも、すぐに忘れてしまうが・・・)


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本は「知能指数」で読むものではない。
「読書力」齋藤孝著より。
まず筆者は「読書力」に基準を文庫百冊、新書五十冊を述べていたが、それにはある程度の期限があった。十年では長すぎ、四年らしい。百冊なら月二冊で4年、月四冊で二年かかる。これなら無理ではなさそうだ。
やはり何でもトレーニング期間を設定しなけば、効果はないのだろう。そして、文庫+新書で百五十冊をこなしたなら、一定のレベル以上の知力や教養が感じられはずだという。しかも、読書には運動と違って素質を必要としないものだった。これはありがたい。
その面白い例があった。かつて『構造と力』(浅田彰著)は、フランスの現代思想を扱った本にもかかわらず、異例な売れ行きを示したという。そして、この本を知能指数が高くても、普段本を読まない人に読んでもらったら、全然わからないという結果だったそうだ。
齋藤氏は読書は「知能指数」でするのではなく、本を読んだ蓄積でするものだという。それは長距離のランニングや歩行に似ていた。いくら運動神経がよくても、日々練習を積んできた素質なのい人にはかなわないのだ。
読書が苦にならないほどの習慣になれば「技」として質的な変化をもたらすと筆者はみている。それが百五十冊だったのだ。