懲役五年の「自由刑」
「メトロミニッツ」2009.7月号より。
A4判で50ページのこのフリーペーパーは当然ながらスポンサーとなっている広告も多いが、読み物、情報記事にもかなりのページをさいている。一般にフリーパーパーが置かれている場所はコンビニの店内外、本屋の入口、駅の改札周辺や通路のラックだろう。
この「メトロミニッツ」も地下鉄の改札の内外のラックに積まれている。人気があるらしく、2、3日ですべてはけてしまう。たまたま地下鉄を利用するタイミングで手にできる。
前置きが長くなってしまったが、写真家・作家でもある藤原新也氏が連載を依頼されたとき、とまどったという。それは都会の人々のための細切れ生活情報誌に自分の文章がなじむかどうかと思ったからだった。
ところが編集長は雑誌の性格は無視してもいいから、4ページを自由に使って何でもやってくださいと言ったらしい。筆者にとって、スペースは与えられても、“自由”ほどやっかいなものはなかったようだ。テーマもなく“何でもいい”はやはり困ることがあるだろう。しかも5年間という期間だった。
そこで藤原氏はそれを懲役五年の「自由刑」と面白く表現していた。結局そこでは「出会った小さな人間の物語」を書き続けていたのだった。しかし、それに気づくまでには試行錯誤したらしい。そのテーマを見つけたときに、自由という苦痛から解放されたと述べている。作家の表現は実にユニークだと思った次第。

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通りすがりの人々が抜き取っていくようなフリーペーパーは、・・・

「メトロミニッツ」2009.7月号より。
(前日のつづき)
このあとには「読者層が決まっているというわけではない」と続いていた。藤原氏が連載してきた「撮りながら話そう」というタイトルの、写真+エッセイのコーナーは6年間続いて、今回が最終回だった。上記はその舞台裏について語っていたなかのワンフレーズだった。
この「メトロミニッツ」というフリーペーパーに連載を依頼された時のことを思い出している。はじめフリーペーパーと聞いて、街頭で配られるチラシのようにすぐに読み捨てられるはかないメディアだと感じたらしい。むしろ映画、本、美術鑑賞などのように、身銭を切ってこそ、人はそれを大事に受け取ろうとするものだ、というのがその時の気持ちだったという。
確かにタダで手にしたものはそれほど真剣にならないものだ。どうせ、タダだから、という気持ちがあるからだ。しかし、筆者は利点も見出していた。それは今まで藤原氏の存在さえも知らなかった未知の幅広い読者にも出合えると感じたからだった。そう考えるとこのフリーペーパーというメディアが新鮮に思えてきたらしい。
私自身もこのフリーペーパーを手にして、初めて藤原新也という写真家・作家の文章に触れることができた一人だった。このブログもややフリーペーパーと似たようなところがありそうだな・・・

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能率だけを考えるならパソコンのほうが便利だが・・・

「メトロミニッツ」2009.7月号より。
これは「山田五郎のMADE IN TOKYO」というコラムにあったものだが、サブタイトルには“聴いて、触って、調べた東京生まれの東京モノ”とあった。
ここでは大学ノートについて書かれていた。このありふれた大学ノートは、明治17年(1884)に本郷の松屋という洋書、文具店が売り出したのが最初らしい。要するに万年筆に適したノートとして作られていたのだ。
そういえば、かなり前に何かの展示会で明治の文豪森鴎外の直筆の大学ノートを見たことを思い出した。それがドイツ語か英語かは忘れたが、筆記体で流れるように書かれたその文字はまさにそれ自体が芸術品にさえ思えたものだった。
大学に通うエリートしか使えないほど立派なノートという意味で、大学ノートと呼ばれたようだ。当時は大学といえば、東大しかなかった時代とのことだ。
今では社会人になってしまうと、大学ノートからは離れてしまうものだ。まともにノートを使ったのは故高時代までだろうか。
今でもまったく使わないというわけでもない。思いつきを書きなぐったり、切り抜きをベタベタと貼りつけたりしている程度だが。まあ、PCのように電源スイッチを入れなくても見られるのがいいかも。(でも悪筆だから読み返すがの億劫で・・・)

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サンマというのは長さじゃなくて、背で見るんですよ。
「招客招福の法則」小阪祐司著より。
今はサンマの季節ではないが、商売のコツの一つの例としてあげてみたい。つまりここでは、お客さんにきちんとした情報発信をして、それが伝わっているか、つまり理解されているかどうかが問題が書かれていた。
ある食料品店の魚売り場でのこと。2種類のサンマにはただ、「一匹130円」、「一匹150円」とだけしかプライスカードには表示されていなかったのだ。筆者が店主に何が違うか尋ねると大きさだというが、見た目は同じに見えたらしい。長さもまったく同じだったのだ。
ほとんどのお客さんは違いを尋ねないかわりに安い方のサンマだけを買っていくのだ。筆者がさらに質問すると次のことが分かったのだ。「サンマは長さじゃなくて背で見る」、ここでは「一匹150円の方が厚くて脂ののりがあっておいしい」ということだった。
こんなことは食品店主や漁業関係者なら、誰でも知っていることだが、多くの消費者は知らないことが多いもの。お客さんが知らないことを効果的に知らせることで、売れるものもあるはず。また同時にこんな新たな発見は嬉しいに違いない・・・な。

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単なる商品の売り買いの関係から、人と人のつき合いに変わっていく入口・・・
「招客招福の法則」小阪祐司著より。
その入口とは「自己紹介」だった。一般的にもちゃんとした自己紹介は必要だが、ここでは商売上での自己紹介ということになる。
ある菓子店の例があった。そこではB5サイズのレターをお客さん(当然ながら顧客リストがある)の家に送り始めたのだ。それはスタッフの似顔絵付きの自己紹介だったという。
お客さんから見れば、その販売員がどんな人かはわからない。つまり単なる売り買いの関係に過ぎない。しかし、自己紹介があることで、気持ちが通じやすくなるものだ。その中でも趣味は親しみやすいものではないだろうか。
例えば「ゴスぺラーズが好きです」「阪神ファンです」などのひと言から、お客さんからその話題で話しかけられることもしばしばのようだ。
また、あるレストランでは、そんなことからお客さんからの無理な要求も激減したという。確かに親しくなるほどクレームも減るだろうことは想像できる。
結果、お客さんとスタッフの会話が弾むようになり、より楽しく仕事に取り組めるようになったそうだ。(何をどの程度、どう表現していくかは工夫次第だろうな)

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何をあげてもお客さんがさほど喜ばなくなってしまったという嘆きの声・・・
「招客招福の法則」小阪祐司著より。
前日「自己紹介レター」のことについて触れていたが、その関連になる。レターの中には、花の種の小袋も同封されていたという。すると、花の種への礼状がずいぶん届くという。
そんな安価なモノになぜ礼状が来るのか不思議でもある。それにはちょっとした秘密があったのだ。花の種に添えられた一枚のレターだった。「花言葉」が書かれていて、「キンギョソウ」には「忙しいあなたに。キンギョソウ花言葉は安らぎです」とあったのだ。
安くても気持ちさえ通じればいいということがわかる。むしろ高額になれば、経費が続かないだろうし警戒感が強まり逆効果だろう。経費をかけるほど喜ばれないことほどバカらしいことはない。
一見何でもないものでも、それがなぜ贈りたいのかが通じるひと言が付け加えられればよかったのだろう。あとはそれを受取って気持ちが通じる人かどうか・・・かな。