日本の国語教育があまりにも受信一辺倒である・・・

「発信力 頭のいい人のサバイバル術」樋口裕一著より。
筆者は日本の教育社会のほとんどが受信がメインであることに改めて驚いている。そうえいば、今月(6/1)に「アメリカの小学校ではショウ&テルという授業がある」ということについて触れていたのを思い出した。つまり、上記フレーズはそのことと関連がある。
発信とは話すことだけでなく書くこともそうだ。実際小中高では作文の授業をやった覚えがほとんどない。夏休みに読書感想文などの宿題は出されたものの、その後どんな評価をされたのかさえ曖昧だ。
筆者は小論文の専門家だが、やはり学校では小論文の書き方などほとんどどこでも教えていないと嘆く。私も習った覚えがない。指導がなければきっちりと書けるわけがない。きっとそれは教師自身が指導の仕方を知らなかったのだろう。
英語にしても受け身の授業がほとんどではないだろうか。読解はさせても作文は全くなかった。英会話の授業も高校までは全くと言っていいほどなかった。やはりこれも受信一辺倒だったな。結局は教える側の能力によるところが大きそうだな。


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作者自身が解けないような問題を出す・・・
「発信力 頭のいい人のサバイバル術」樋口裕一著より。
この筆者の文章はわかりやすさが身上ということで、しばしば入学試験に出題されるという。その入試問題を樋口氏自身が問題を解けなかったという。いったいこれはどういうことだろう。
たとえば、「作者はこの部分でどのようなことを考えているか、以下のうちから選べ」という問題だったらしい。ところが、作者自身がそれが解けないというのだ。これはちょっと笑えてくる。
というのも、選択肢の中に、作者のいいたいことが含まれていなかったりするからだった。結局本当に言いたかったのは、選択肢のうち2つか3つを合わせたようなものを、作者自身は思い浮かべていたからだったらしい。
つまり、作者自身が解けないような問題を出すこと自体に大いに問題があるというべきだと語っている。ということは、これまでの入試問題では著名な作家の作品からも出題されていただろうが、もしかしたらその正解も作者の意図とは違っていたかもしれないな。

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書こうと思わなければ気づかずに通りすぎてしまう。

「発信力 頭のいい人のサバイバル術」樋口裕一著より。
まずは、筆者の樋口氏自身の思い出があった。それは小学校時代に「スピード新聞」という名の学校新聞があったという。それは小学生が自分たちで記事を書いて毎日配布されて、2006年には1万号を迎えていたという。
このような記録はギネスにでも登録できるのではないだろうか。B4判1枚だが、必ず1枚を埋めるのは大変そうだ。結局校舎をあちこち歩き回って記事のネタを探さねばならない。
樋口氏もそのメンバーとして書いていたという。毎日の締め切りに追われながら記事を書き続けるのは並大抵の努力ではできない。
記事を書こうと思って校舎やその周辺を見ることで、ふだん通りすぎてしまって気付かなかったことにも気づくようになったという。何かを書こうという意識があれば、情報は身に入ってくるということだった。
すでに、ブログなどを始めている人はまだブログとは無関係の人に比べれば、それに気がついているに違いない。何かを書かねばと思えばこそ目にしたものが気になって、デジカメやケータイで写真を撮りたくなるのかも。
人に伝えたいと思うことがあるからこそ、その情報が身につくこともあるのかな。またそれが、自分が無駄でない時間を過ごしたということになればいいのだが。

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商店街は単にモノを売り買いする場ではなく、地域のコミュニケーションのベース・・・
「相鉄瓦版」2009.6月号より。
「横浜商店街応援プロジェクト」というメンバーのある主婦の言葉だった。かつては活況だった商店街も今ではシャッターが下ろされて寂れているところもある。どうしても、地元に大型スーパーができると人の流れは変わってしまったりする。
子どもの頃は実家の近くには個人商店があって、家族がそこの店主とも顔なじみになったものだった。また幼い子供を持つ親には安心感もあったに違いない。子どもが小学生に上がると初めてのお使いに出したりするものだが、そこが行きつけの個人商店なら安心感もある。
しかし、ここで語っている主婦は大型スーパーでは、なかなかお店とのいいコミュニケーションをもつことは難しそうだと感じていた。むしろ地域にある個人商店のほうが安心感がありそうだ。単にモノを買うだけ以上の価値があるとも感じられる。
今月初め、個人商店ではないが、風呂場の脱衣場のビニールタイルと壁紙が痛んだので、一部を貼り替えようと地元のホームセンターに行った時のこと。若い店員は必要な広さや使用する両面テープについて親切にアドバイスをしてくれたのだ。とてもサービスの感じが良かった。
ついでに、今すぐ必要ではないがそのうち使う消耗品もその店で買っておこうという気になって、当初の買い物の4倍も買ってしまった。買い物の際にいい会話ができると気持がいいものだ。やはりちょっとしたいいコミュニケーションこそがお客をその気にさせるものだと実感。(話はちょっとずれましたが)

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あいさつの言葉で気になる点の一つに、なぜか命令形が多い・・・
「相鉄瓦版」2009.6月号より。
それにしても、国語学者というものはいろいろなことにこだわっているものだと思わせられる。ここでのタイトルは「こだわりの日本語」となっているからそれもしょうがないが。
さて、ふだん何気なく「おやすみなさい」「おかえりなさい」と言っているが、「〜なさい」は確かに命令形になっている。今までそんなことは考えたこともなかった。むしろ丁寧な言葉にさえ思えたが。
「立ちなさい」「持ちなさい」と言われたらちょっと驚くかもしれないが、「立ってください」「持ってください」なら普通だろう。
先ほどの「おやすみなさい」は「私はやすみますが、あなたも早くおやすみください」といったいたわりの意味だったらしい。それが慣用化したと推察されるようだ。
また「おかえりなさい」は「(ようこそ)おかえりなさい(ませ)」という丁寧語で(カッコ)の部分が省略されたものらしい。「よく帰ってきた」と評価していたわけだった。
まあ、そんな意味を知っているよりもきちんと挨拶ができる方が先決でしょうがね。蛇足ながら「さようなら」はもともと「それならば」という意味だったそうな・・・。よく考えれば納得かも。