努力を客観視するための測定方法・・・

朝日新聞」土曜版。2009.4.11付より。
これは「勝間和代の人生を変えるコトバ」というコーナーのなかにあったものだった。そして、この努力の測定方法とはどれだけ時間をかけたかということだった。
この日のタイトルは「努力は、かけた時間によって測定できる」となっていた。これは勝間さんが38歳でたどり着いた考えだという。実にシンプルでわかりやすい。
もちろん、いくら時間をかけたからといっても、その時間の密度こそが大事だろう。努力もどこまですれば満足ということはなかなか判断がしにくいもの。いずれにしても、結果が出なければ無意味になってしまうこともある。
たとえば、受験を例にあげれば、いくら努力しても人がそれ以上の結果を出せば、不合格になってしまうこともあろう。また逆に大した努力もせずに一流校に入れれば、それはそれでカッコよく見える(かもしれない)。
時間という区切りならば、努力が見えやすいのは確かだろう。自分は○○年間これをやってきたといえるものがあれば、それは努力してきたといえそうだ。なかなか年単位で努力を継続するのは大変そうだ・・・

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いい教育は人生の祝祭になるし、悪い教育は公害になる。
「教育力」齋藤孝著より。
いきなりかなりインパクトのあるフレーズに出くわした。実際に教育の現場にいるだけに実感としてそう感じているのだろう。齋藤氏は大学の教職課程で、教員志望者に授業をしている。そんな立場からの意見だから説得力もある。もし、これを一般人がいっても誰も納得しないかもしれない。
教育力とはいっても、すべてが教師向けの話ではないとも受け取れる。親子の間でも教育はある。会社に入れば一般的には新入社員教育が施されるだろう。別に一か所に集まらなくても現場でのマンツーマンの教育もある。
こう考えれば、学校時代の教室で行なわれる以外の方が多いかもしれない。もちろん教師自身も新人のうちは教育される立場だろう。そこで大事なのは教師自身が学び続けることだと齋藤氏は述べている。
教える相手がいるからこそ、学ぶ意欲が持続するという良さもあると指摘している。なるほど、これは一般の仕事に置き換えてみれば、買うお客さんがいるから、商売も継続できるとも考えられる。また身近なところでは、読んでくれる誰かがいるからブログも継続できるとも言えそうだ。
教師は単に教え方を知ってるだけでは、十分ではなかったのだ。しかも教える立場の人は最低限読書の習慣は必要だという。つまり教えることの専門家であると同時に、学ぶことの専門家であらねばならないと主張する。
また学ぶことのプロフェショナルであるからこそ、教える側に立つことができる、と似たような表現で繰り返し述べていた。教育者だからこその実に熱いメッセージだとも感じられる。

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素質と関係なく、技を丹念に磨けば誰もが一流になれる・・・
「教育力」齋藤孝著より。
ここでは、対談した柔道の野村忠宏選手を例に取り上げていた。野村選手は少年時代市の大会で女の子に負けたという。体が小さすぎて勝てなかったようだ。中学、高校になっても全く勝てなかった。
しかし、そんな時代でもずっと、技は切れると思っていたようだ。基本はできているが、ただパワーがないだけだったのだ。だから時期がくれば必ずトップに立てると確信していたという。勝ち負けには経験や体力差などいろいろな要素が含まれる。
彼の向上心を支えたものは、きっちりした技を身につけておけば、絶対に一流になれるということだったようだ。常に技を磨き続け、その結果として五輪で三連覇という偉業を達成できたのだ。
あらゆる相手の技に対して、必ず反応できる体も技であったのだ。それを20年をかけてつくってきたのだ。その自信があるからこそ、試合本番でリラックスしてのぞめるようだ。
さて、自分を振り返ってみて、仕事の中で人にないどんな技をもっているだろうか、また磨き続けているだろうか・・・とふと考えてしまった。

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砂漠でオアシスを求めるように、生徒は余談を待っている。
「教育力」齋藤孝著より。
先生が教室に入るなり、ほとんど前置きもなく授業を始めたりするとなんだか気分が滅入ったりしたものだった。生徒は余談、雑談が好きなもの。
教科書に入る前や途中で何らかの雑談があると、その先生には余裕が感じられたものだった。落語でいうマクラのようなものだろう。一流の落語家はそのマクラでその日のお客さんのレベルやノリを感じ取るらしい。そして、話の内容も変えられるという。
教師とは言ってもさまざまなレベルがあることは、生徒の側も感じ取ってしまう。その教師の授業の進め方が上手かどうかで、その教科への関心も変わってくるものだ。
高校時代の国語の教師は確かに授業の何分の一かは必ず余談をしてくれたものだった。それが面白くてためになり、ノートに書いていたものだった。その後その内容はすべて忘れてしまったが。教科の授業よりもむしろその方が勉強になったかも。
よくトップセールスマンは雑談力があるとも言われている。それはいきなり商売の話に入らない、ということでもあろう。まずは、いいコミュニケーションを築きあげ、信頼を得られてから商談に入るからに違いない。
生徒が待っている余談にどれだけ答えられる教師がいるだろうか。当然興味深い話をするためには、教師自身がいろいろと幅広く勉強していなければ、できないことだろう・・・な。

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学校というのは、幸い何の苦労もせずに、はじめから客がいてくれる。

「教育力」齋藤孝著より。
いきなりこの部分だけを取り上げてみると、実に面白いことを言っているように思えてくる。それは生徒(学生)のことを客という表現でとらえているからだ。
生徒が客なら教師は演技者ということになる。つまり舞台にたつ役者ということになる。確かに演劇を考えれば、常にライブだ。客席の観客に満足してもらわねばならない。
生徒は授業料というお金を払って学びに来ているとも考えられるだろう。しかし、学校の場合は楽しくなくてもほとんど義務でその授業時間を過ごさねばならない。退屈でも次の時間にはお客(生徒)は入ってくれる。
同じライブでも一般の演劇ではそうはいかない。小さな演劇集団なら自分たちの手でチケットを売りさばかねばならない。期間の日数分だけ、また会場が大きくなるほどそのノルマは大きくなる。
そして、その舞台の芝居がつまらなければ、お客には途中でも帰ってしまう権利はある。さらには、いかにつまらないかをクチコミしてしまうかもしれない。
しかし、同じ教える立場とは言っても予備校の場合は、そこにいかに実力のある人気講師がいるかも繁盛する要素だろう。もちろん高額なサラリーを得られるカリスマと呼ばれる講師はごく一部だろうが。
その点、学校の教師は、幸い何の苦労もせずに、はじめから客がいてくれる、となるわけだ。そう考えれば、ある意味恵まれているとはいえまいか。とはいっても、実際は授業で科目を教えるより生徒指導のほうが負担が大きいかもしれないが。

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ゲーム化の基本は、限定とポイント制とごほうびだ。
「教育力」齋藤孝著より。
もちろんここでゲーム化するのは何かといえば、勉強ということになる。ある一つの習慣を身に着けさせようとするとき、このゲーム化は意味がでてくる。
たとえば生徒に読書して感想文を書くということを習慣にするためには、毎週書いたものを提出させてシールを貼るということにすれば簡単だ。毎週、シールを貼るということでもモチベーションはあがるらしい。
やる気を出させるための方法としては、作業をゲーム化するのがちょっとしてコツになってくる。時間、期間を区切ったり条件を付けることで目標が見えやすくなる。
サッカーも手を使わないことでゲームになっている。上手な限定はゲームの面白さを増してくる。やや関係ないが、サッカーに比べると野球のルールはかなり複雑にできている。そんなところもなかなか世界に広まっていかない理由だろうか。
目標設定ということを考えれば、会社の営業部門を想像すれば分かりやすい。その部門で設定された予算をクリアーできれば、その後のボーナスにも反映さえるだろうし、それが継続すれば出世にもつながるかもしれない。つまりそれが、ごほうびとも考えられるのだ。
やってもやらなくても同じことなら、モチベーションはどんどん下がってしまうことだろう。仕事ではあらかじめ期間や目標予算は決められている。これが限定ともいえる部分だろう。もし自分なりにそれをゲーム化して進められるなら、時間が過ぎるのが早いかもしれない。