運不運といった非合理的な説明しかできない微妙な差異・・・

「R25」2009.4.9号より。
会社や組織の中で出世できるかどうか(それを望んでいる場合)などは、努力や実力も大事だろうが、運もかなり左右しそうだ。配属された部署にもよることもあるだろう。またその時の景気の良し悪しとなるともう運としか言いようがないとも思える。自分がいくらがんばったところで、また学生時代の成績がよくても頼りにはならないだろう。
サラリーマンも運が左右するもの。まったく自分に責任がないと思っても、その会社のトップの判断で倒産ということもあるだろう。うまくいっている時な何をやってもうまくいくものだが、一旦一部の歯車が狂い出すともうどうにもならなくなってしまう。
筆者が大学の就職課で聞いたところによると、去年はこれで大丈夫かという学生が大企業から複数の内定をもらっていたという。ところが一年後になると、どれほど優秀な学生でも内定一つ得ることさえ困難な状態らしい。たった一学年の差で状況は大きく変わってしまっている。
最終学年を迎えた学生は今のところ不運といった中にいるのだろうな。それは、マスコミでも報道されたように、企業の倒産件数の増加や内定取り消しということからも感じられる。実に企業も生き残りをかけて必死になっているのはわかるが。
とにかく、自分の努力ではどうにもならないほどの運不運が身の回りには起こっているようだ。今はとりあえず、いまできる努力を続け、耐えるしかないのだろうか・・・企業も就活する側も。

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「面白いよりも役に立つ」というもの・・・
『「R25」のつくりかた』藤井大輔著より。
このフリーペーパーの読者対象にいして、どんな内容を提供していこうかと考えたところ、上記のような結論になったようだった。
というのも、彼らが求める面白いと思っているものなら、すでにテレビ、ネット、雑誌などにいくらでもあったからだ。面白いものなら自分からいくらでも求められる。レジャーやエンターテイメントはもう十分ではないだろうかと編集者は考えていた。
それより、むしろ役に立つ情報なら知ってお得感があるかもしれない。しかもタダでそれまで知ってそうで詳しくは知らなかったような知識を得られればうれしいことになる。
実際そんな目でこの毎週発行されるフリーマガジンを眺めてみると、経済、政治、スポーツ、健康関連、一般生活、食品、言語、ファッション、雑学等さまざまな雑情報が詰まっている。
しかも、それらをコンパクトにまとめてあるところがいいのだろう。ほんの数分でその知識の入口までは到達できそうだ。もしそれで興味がわけば自分で調べる手がかりにもなろう。
そういえば、私もたまにここに掲載された統計や雑学的な情報などはノートに切り抜いたりもしている・・な。もちろんそれは後で知ったかぶりをするためだが。

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新聞より親近感、インターネットより信頼感。
『「R25」のつくりかた』藤井大輔著より。
これはこの本の最後の方にあった「さらにビジネスを広げるために」という第六章のなかの一つの項目のタイトルだった。親近感と信頼感という部分が、実にシンプルで語感がいいので取り上げてみた次第。
新聞は毎日目にはするが、読むのはそのごくごく一部でしかない。しかもタイトルさえすべて眺めようとすればかなりの時間を費やさねばならない。
そんな時間はないから、ぱっと見て関心があるところにしか目をとめたりはしないもの。人によって読みやすい新聞はあるだろうが、お気に入りの雑誌に比べれば親近感があるわけではない。
また、インターネットの場合はさまざまな検索にはお手軽ではあるが、時としてそれは信頼感に不安が伴うものもあるのは確かだ。さらに、同じ情報がいつまでもウェブ上にあるとは限らない。
そのような新聞やインターネットとはやや異なるものとして、このフリーマガジンはひとつのブラントともなったようだ。この筆者にはそれは、「新聞より親近感が持たれ、ネットよりも信頼感が持たれているのではないかと思っているようだ。
今ではこの「R25」もネットでも読めるが。やはり、印刷され活字にするとなるとより責任が問われそうだ。たとえ短い情報や統計資料でも確認、校正は行われていると思われるし。それが信頼感につながるのろう・・・な。

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あらゆるレベルで山積みした隠しごとが、事件解決を阻んでいる・・・
「世田谷一家殺人事件」齋藤寅著より。
この本は数日前に実家の兄の所によった折に貸してもらったものだった。本自体は2006年6月に発行されたものだった。約9年前のこの事件はいまだ解決していない。
この本に関心があったのは、この被害者のお宅の前の道路を何度か車で通過したことがあり、家を見かけたことがあったからだった。他の家からやや離れて、公園の一角にさみしそうに建っている様子が目に浮かぶ。
4月の初旬にはこの公園内を流れている川沿いの桜が満開で、人々がのんびりと写真を撮ったり暖かい日差しの下で花見を楽しんでいた。しかし、そんなのどかな風景の近くで実に悲惨で恐ろしい事件が起こったものだ。
事件は2000年の12月30日から31日にかけて発生したものだった。しかも遺留品の数はおびただしいほど多かったのも異例だ。指紋さえはっきりと残されていたのだ。それにもかかわらず犯人は捕まっていない。
かなり広範囲に聞き込み調査もされていた。仕事での同僚の家にも警察がかなり経ってから聞き込みに訪れたという。いきなり警察の訪問を受けて驚いたと話していた。
また、事件から数か月後には、捜査本部の警部補が虚偽報告を繰り返していたとも報告されている。採取した指紋も警部補自身と妻のものだったという。こんな事実からも警察はまだ他にも不都合なことを隠しこんでいるのではないかと疑われても仕方がないだろう。
もちろんこの本に書かれていることが、どれくらい信憑性があるかどうかなどはわからないが、かなり広範囲にまた長年かかっていろいろな資料をあたって取材したことはうかがえる。いずれにしても被害者や遺族のためにも時効前に、せめて迷宮入りにならず、犯人が捕まってほしいものだ。