悪条件、あるいは逆境は、日々の免許書き換えでもある・・・

「テレビ、このやっかいな同居人」阿久悠著より。
長年にわたって音楽の世界に身を置いてきた筆者ならではの感覚なのだろう。ブームという大波が押し寄せてきて、それもいつしか去っていく。そのブームの繰り返しがいつも行われているのが音楽の世界のようだ。
もし、そのブームがなければ沈滞したマンネリズムだけがその世界を支配してしまうと、阿久さんは考えていた。だからこそ、ブームが起きるということは免許書き換え(更新)のようなものだと思えたのだろう。
いかにその時代にあったブームを起こせるかがクリエイターたちの免許書き換えだったのだ。とくに歌謡曲が全盛の頃に活躍した筆者にはそういう感じたに違いない。次々と新しいものを生み出していかねばならなかったのだ。
ここで、筆者はそれはまた不景気風も免許書き換えのムーブメントと解釈したらどうかとも考えている。つまりそこでは知恵と力と意欲を試されているという意味では共通していたのだ。のんびりしているうちは免許の再取得はできないということだった。
こんな時代にはいい条件が整ったから倍の力が発揮されるというより、むしろその逆で悪条件だからこそ、余計に知恵と力と意欲を働かせなければならないのだろう・・・な。現在のように景気が低迷しているなかでも、好業績を上げている企業もあるし。


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「名作発掘」と題して『四月馬鹿の悲劇』を紹介した・・・
「ミステリーとの半世紀」佐野洋著より。
たまたま、四月に入ったのでこの『四月馬鹿・・・』という部分が気になった次第。
筆者の佐野氏が作家になった後で、『推理』という雑誌の別冊の責任編集を任されたとき、上記のように「名作発掘」と題して『四月馬鹿の悲劇』(岡田鯱彦著)を紹介したという。というのも、そのときの驚きがそれだけ強烈だったからだと語っている。
しかも、そこには次のように書いていたのだ。・・・“私に『四月馬鹿の悲劇』とピーストンの『自供書売ります』を読む機会がなかったら、或いは、私は推理小説家になっていなかったかもしれない。”
そして、それは決して誇張ではないとも書かれていたのだ。そして、佐野氏はこれを読んでからほぼ10年後に探偵小説の懸賞募集に応募して作家となっていた。
このように、人生の方向を決めてしまうほどの作品に出合ったことはある意味ラッキーだったのだろう。今までの自分にはそんなインパクトのある本に出合ったことはなかった・・・かも。


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「代わりがきかない人」特有の、特別な風格・・・

「ミステリーとの半世紀」佐野洋著より。
佐野氏が江戸川乱歩に会ったときの第一印象は「怪物」というものだったらしい。当時(30歳ごろ)の筆者は1メートル78あって、それより高い年長者は稀だったという。しかし、一見してそれより背も高く堂々とした恰幅を持っていたと振り返っている。
「あ、ほかの人とは違う」「この世に一人しかいない人物」と感じたようだ。もっとも誰だってこの世に一人には違いないが、スケールの大きさや「オーラを持った人」だったのだ。
そして、佐野さんはあのオーラはどこから来たものかと考えたようだ。例えば、初当選した政治家が総理大臣の前に出たら、あの時のように感じるだろうかと思いを巡らしている。
しかし、それとは違っていたのだ。総理大臣は代わりがきくが、乱歩さんは「日本に近代探偵小説を根づかせた人」で、代わりを見つけてくることはできないという考えに至っている。
つまり、代わりがきかない人特有の、特別な風格が、江戸川乱歩の身にはついていたのだと、述懐している。そんなことが周囲の人を威圧するような雰囲気を作っていたに違いない。
そういえば、そんな風格を感じる人ってそうそう身近にはいないことにも気づく・・・な。そういえば、10年近く前に長嶋茂雄さんを帝国ホテルでのある催しで、間近で見たことがあったが、確かにオーラを感じた数秒間だったな。

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「嘘はつかれた数だけ幸せになれる」
「嘘はつかれた数だけ幸せになれる」丘舜介著より。
今日がたまたまエイプリル・フールということでそれにふさわしい一冊を取り上げてみたいと思った次第。上記は本のタイトルそのままで、フレーズというよりつまりそれ自体が気になったのだ。
今年の初め神田神保町の古本屋を何気なく覗きながらぶらっと歩いてみた。その時購入した5冊のうちの1冊がこれだった。しかも、買っただけで中身はほとんど読んではいなかったのだ。表紙も比較的きれいで古くはないが、もうすっかりホコリがついている。
さて、一体これはどういう内容だろうと今頃になってから気になって、さっそく手にとって目次を開いてみた。すると、次のような項目が目に入ってきた。「正直だけで本当に幸せがつかめるのだろうか」、「あのときどうして、嘘をつかれてしまったのか」、「どうせなら、一生つきとおしてほしかった嘘」、「知らなければ、幸せは続いていたのに」、「嘘はつくよりつかれた方がいい」などだ。
どれも、これも実に気になる目次の項目だった。本当に嘘はつかれた数だけ幸せになれるのだろうか。嘘をつかれて知らなかったということは、ある意味知って不幸な気持ちになるよりラッキーなのかもしれないな。俗にいう知らぬが仏という言葉もあるように。
または、人の秘密をたまたま偶然知ってしまっても、知らぬふりをすることでも、人間関係がうまくいくこともある場合も多そうだ。あえて、口に出さないことも人生では大事なことでもあったのだ。まあ、そんなことはいちいち人に言われなくても、大人だったら誰でもわかっていることだろう。
ところが、しばしば、そんな暗黙のルールを破って知ったかぶりをしたばかりに不幸に陥ってしまうこともあるらしい。また、ついつい「ここだけの話」ってやつが、ほとんどの周囲の人の知るところとなるというような話はよく聞く。人の口に壁は立てられないということだろうな。
なんだか今日はいつもよりキーボードを打つ指が滑りすぎたような気がするな。ま、ご想像のとおり、この話も本もタイトルも含めて全て思いつきのつくり話(つまり嘘)ですがね。(それさえ知らなければ、本屋に走った?)