自分が買いたいのか買いたくないのかよくわからないうちに消費を続け

「退屈力」齋藤孝著より。
私たちはテレビやネットを通じて連日コマーシャルを目にしているが、それは欲望を刺激されている状態になっているわけだった。すると、自分で買い物をする際、どうしてもテレビで目にしたものを手にしてしまうのではないだろうか。もしかしたらちょっとした安心感かもしれないが。
また、ほんとうに必要かどうかもわからないのに買ってしまうこともありそうだ。それは外からの刺激にコントロールされていることと同じようなものだった。筆者はこれを「高度刺激社会」と名付けている。つまり誰もが退屈を恐れ、刺激を求め続けている状態だった。
特に子どもが幼いころは、テレビでディズニーランドのCMが流れれば、すぐに行きたいと言っていた。また、楽しそうなゲーム機器が発売されればそれが欲しいと言いだしていたもの。しかし、そんな欲望は時間の経過とともに薄れていったりもしたが。
もちろん大人だって似たようなもので、テレビで知名度の高いタレントが身につけているファッションが素敵だと思えば、さっそく自分も欲しくなったりしたのではないだろうか。また雑誌に掲載されたファッション小物、衣料品などもデパートにはすぐに問い合わせが入るものもあるらしい。
筆者はそのように外からの刺激だけで行動を起こすことや、何も考えずに刺激を求め続けるのは人間にとって問題があると指摘している。その態度の転換のキーワードが「退屈力」だという。その意味は、刺激の少ない状態の中で、自分の脳と身体を満足させることのできる能力のことだった。


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セザンヌの「退屈力」の大きさ・・・

「退屈力」齋藤孝著より。
これは“画家と退屈”という部分にあったフレーズ。19世紀後半、後期印象派時代に活躍したセザンヌは故郷のサント・ヴィクトワール山をモチーフにした作品を数多く描き続けてした。油彩画44点、水彩画43点、さらに多くのデッサンを残していたという。
普通ならいろいろな山を描きたいと思うだろうに、まったく同じ山を飽きずに試行錯誤しながら描き続けていたのだ。筆者は、一見地味な仕事を繰り返したところにセザンヌの「退屈力」の大きさを感じていたようだ。もちろん、セザンヌは画家としての一つの例だろうが、ほかにも同じモチーフで数十枚は描いているケースもあるだろう。
絵を描くということは、実にクリエイティブなことには違いない。しかし、それは地味で地道な作業の連続から生まれるものでもあった。はじめに基礎であるデッサンを繰り返さねばならない。それを何年も続けることを考えればかなり飽きてしまいそうだ。
結局それを乗り越えて、初めて自分なりのスタイルで自由に描けるようになるのだろう・・・な。筆者は別のページで、「傍らから見れば退屈に見えるようなことの中に、当人が退屈を感じずに喜びを見出していく力、それが“退屈力”である。」と語っている。


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仕事とは、退屈な部分が大勢を占めているもの・・・

「退屈力」齋藤孝著より。
いつでも、刺激的で面白い仕事というものはあるのだろうか。人がやっている仕事は自分のより楽しそうに見えたりするもの。なんと面白そうな仕事だろうなどと。(時にはそうでもないが。)しかし、当人にとっては実に厳しかったりマンネリに陥っているかもしれない。
またその面白そうなレベルまでに行くために長年単調な仕事を繰り返してきたかもしれない。特に人のいい部分だけは目に入りがちなものだ。むしろ振り返ってみれば、自分のほうがいい条件の場合もあったりするだろう。
数年前から言われていることは、新卒の3分の1は3年以内に辞めてしまうといったことだった。しかし、今のような就職難の時代でもそうだろうか。それまでは「自分の実力が十分に発揮できない」「仕事がつまらない、やりがいがない」「自分が本来やりたい部署の仕事でなかった」などの理由で会社、組織を辞めてしまったようだ。
しかし、20代はやはり本当に自分の実力がどれほどのものだろうか、試行錯誤しながら仕事を覚えていく時期なのだろう。30代になってようやく仕事ができるようになるかもしれない。一般的には働き盛りは40代ではないだろうか。
逆に30年以上も同じ組織の中にいるとまるでぬるま湯の中にいるような気持になって、あえて冒険はしなくなってしまうかもしれないが。だから、挑戦するなら若いうちだと言うのも当然だろう。それにしれも、いつまでもわくわくした状態で仕事をできるとは限らないだろう・・・な。