演技は「ふりをする」のではなく自分の中の「真実」使う。

朝日新聞」土曜版、2009.2.7付けより。
フロントランナーという紙面で演出家・キャスティングディレクターの奈良橋陽子さんが語っていたことだった。彼女は周囲の誰もが認める「超」がつく努力家のようだ。そして「求める思いが強いとエネルギーになる」という。安易にモチベーションなどと表現しないところがいい。
キャスティングとはハリウッド映画に日本人の俳優を紹介するような仕事で日米の橋渡し的な役割を果たしている。渡辺謙菊池凛子なども彼女が世界の舞台に押し上げたようだ。このような映画の配役を決めるキャスティングディレクターの第一人者だった。自身も日本の大学を卒業後に20代で女優を目指して米国の演劇学校でも学んでいた。
ここのインタビュー記事の中では数回「真実」という言葉が出てくる。それは奈良橋さんが学んだ演技の真髄のようなものだった。実際に集客力のある俳優はみな身を削っているという。
言われてみれば、自分の「真実」を使って演じるからこそリアリティーがでてくるのは当然のようにも思えてくる。自分が経験した傷ついたことや苦悩が演技に生かされているということだろう。
この奈良橋陽子さんの名前からすぐに連想されるのは「ゴダイゴ」の作詞家でもあり、英語劇の演出家だった。私が初めて彼女を見たのは、もう30年以上前、渋谷での都内の大学生による英語劇の舞台だった。当時は野村陽子(20代半ば)という名前で、劇の終わりに流暢な英語で感想などを述べていた。
あの頃のハスキーな彼女のスピーチは感情豊かで、驚かされたものだった。ばらばらの各大学の学生をひとまとめにして、エキサイティングな舞台を作り上げていることに刺激を受けたことを思い出す。そして、自分もその後大学での英語劇に数回ほど参加した覚えがあり、楽しい時間を過ごせたものだった。


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買い物で使うお金の額は、本当に必要な額の3倍になっている・・・
朝日新聞」土曜版、2009.2.7付けより。
こう述べているのは岡田斗司夫さんだった。一昨年前まではこの人の名前をまったく知らなかったが、ベストセラーになった本のおかげですぐにその本の表紙が思い浮かぶ。
その本は『いつまでもデブと思うなよ』だった。約50キロもの体重減を実践した中年おじさん向けの本で、ブカブカになったズボンをはいている姿が思い浮かぶ。もともとはゲーム製作者でオタクの一人だったようだ。今の肩書は評論家となっている。同時に大阪芸術大学客員教授も務めているようだ。
どうして、実際に必要な額の3倍も使ってしまうのだろうか。それを3つに分けていた。1、本当に不可欠なもの。2、理想や希望をみたすもの。3、念のためのもの。このうち、2と3を抑制すればいいのだった。
確かに、振り返ってみれば、少しでもいいものを求めてしまう誘惑を振り切るのは難しい。同じ値段ならいいが、やはり金学もそれなりに必要になってくる。ついつい衝動買いで余計に買ってしまうことも多い。
これもダイエットする際とに共通している。目先が美味しそうだとついつい食べ過ぎてしまったり。そこはちゃんとカロリーを頭に入れながら食べればいいのだろうが・・・。買ってもほとんど着ることがなかった衣料品もあることは確かだった・・・な。


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(架空の人物でも)「好きの度合い」さえ強ければ、自分にとってのロールモデルたりえる・・・
ウェブ時代をゆく梅田望夫著より。
梅田氏が架空の人物と呼んだのは、シャーロック・ホームズだった。氏は少年時代から私立探偵の在りように心惹かれてやまなかったという。
そのどこに魅力を感じていたかを分析している。それは「ある専門性が人から頼りにされていて、人からの依頼で何かが始まり急に忙しくなるが、依頼がないときは徹底的に暇であること」だった。だから架空の人物だってよかったのだ。
これと似たものに、見たこともない歴史上の人物を見本に自分の生き方の指針とする人もいよう。例えば、坂本竜馬にあこがれる武田鉄也などもそうかもしれない。そんな意味で司馬遼太郎の作品は多くのロールモデルを紹介しているのかも知れない。
話がかなりそれてしまったが、梅田氏はシャーロック・ホームズの仕事を念頭に置いて、その後の経営コンサルタントという仕事に行きついたのであろうか。実際に仕事の依頼があるということ自体がすごいことだとも思える。要するにそれなりの実力や実績、信頼がなければなにも始まらないだろうが。
プロとしていけるだけの実力がついていればいいが、そこまで行くのがかなり長い年月が必要とされよう。暇でも食っていけるのは、実に恵まれた環境であるに違いない。
さて、タイトルにあげた「好きの度合いさえ強ければ」という部分と、一昨日の日記で取り上げた奈良橋陽子さんの「求める思いが強いとエネルギーになる」という個所は、なんとなく共通しているような気もした・・・な。

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「人を褒める能力」とは「ある対象の良いところを探す能力」
ウェブ時代をゆく梅田望夫著より。
ブログを思い浮かべるとわかりやすい。ブログを読んで面白かったと思えば、そこから交流がはじまることがい多い。自分が読んでいいブログだと思えば、褒めたくなってしまう。ただそれをコメントという形で残すかどうかでもあるが。
さて、タイトルに戻って、モノの良いところを自分が発見できなければ褒めることもできない。当然読み手がその文章のどこかに共感を覚えなければ、他人がいいといってもコメントは書けない。
ネット上での交流でも、かなり自分が気がつかないことにも参考になる意見が含まれるもの。それは時には人と会って話しているのと似てもいる。自分の考え方に対して、また別の考え方のヒントを与えてくれたりもする。
もし、意見が批判的なものばかりなら、それ以上の発展はなさそうだ。人の批判ばかりしている人がいるものだが、考えてみればそのほうが的確に褒めるよりも簡単そうだ。
悪いところは誰からもわかりやすいのだ。そんな粗探しばかりやっているとそれがクセになって、知らず知らずのうちにネガティブな人間になってしまうのが恐ろしい。
褒めることは、自分の能力を高めておかなければ、そうそう簡単にはできないのかもしれない・・・な。ある対象の良いところを探すとは、前向きに生きているような気もする・・・な。