情報は目からではなく耳から(つまり、言葉で)入ってくる・・・

『「ハンバーガーを待つ3分間」の値段』齋藤由多加著より。
都心へ向かう朝の通勤電車はしばしば遅れることが多くなった。以前はそれほど遅れることはなかったのにいったいなぜだろうと思うこともしばしばだ。
電車が停車して遅れ始めると車内には車掌のアナウンスが流れて、その理由が説明される。しかし、説明のアナウンスがあったからと言って、電車がきっちりと動き出すわけでもない。乗客はただあきらめるしかない。
一番困るのはなかなかその説明がされない時だったりする。事故がらみだったりすると、振り替え輸送の案内などもされるが、途中の乗り換え駅がない時には困りものだ。
昨年の夏ごろには、都心を歩いていたら上空にヘリコプターが何機も旋回をはじめて騒がしくなったことがあった。恐らく新聞社のヘリで何か事故か事件が起こったことは容易に想像はできた。しかし、それだけではそれがいったい何なのかはわからなかった。
そこで、勤務先の事務所に電話をしてネットで調べてもらったら、その事故の内容がわかり納得できたことがあった。そして、手元のケータイでもその内容がニュースになっていることも確かめられた次第。
このように情報は見ただけではそれが何であるかはわからず、言葉で説明されてわかることが多い。さらに詳しく知りたい場合は、マスコミのニュースや新聞で確認することになるだろうが。


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「見る」というのは、実は視力ではなく、知識や経験によって決まる・・・

『「ハンバーガーを待つ3分間」の値段』齋藤由多加著より。
社会人になって仕事を始めると、その時はそれなりにかなり理解してやっていたつもりのものが、20年も30年も経ったあとから見るとほとんどちゃんと見てなかったことにも気づく。
これはしばしば言われることだが、読書も同じで年齢を重ねるにしたがって、書いてあることがより理解できることがある。これもやはり知識や経験が深まるから見えてくるということだろう。
また眼を開けていたからと言って、ちゃんと見ているとは限らない。それはモノを見るポイントがずれていたりすることからわからないことだったりもする。何に注意をして見ればいいのかを事前に分かってないと本当に見たことにはならないのだろう。
変わったところでは、パソコンなどのマニュアルもわかりにくいもの。それを作っている人は専門家だから当然知っているだろうが、素人には理解できない。確かに間違ったことは書かれてはいないだろうが、すっと頭に入ってこない。
言ってる本人、書いている当人には見えていても、第三者にわからないければ意味は半減してしまうことだろう。たとえば、いま書いているこの日記などもかなりわかりづらいことも大いに違いない。(きっとそれは私がだらだらと書いているからに違いないが)


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「領収書」は手書きにこだわる人が多い。

『「ハンバーガーを待つ3分間」の値段』齋藤由多加著より。
もしそれがレシートのままだと軽く感じられるのであろうか。月に数回はタクシーを利用することがあるが、降りるとき領収書が必要ですか、と訊かれることが多い。しかし、ほとんど飲んで帰った時なので、一度も必要だったことはない。
レシートと領収書の違いはなんだろう。レシートにも領収書と印刷されているものがある。しかも、領収書よりも詳しく明細が書かれているもの。手書きの領収書はなんだかごまかしがききそうな気もするが。
手書きの領収書には詳しくその明細が書かれていないからこそ便利な時もあるのかもしれない。あとで経費で処理する場合には現金と同様な扱いになるものだ。そんな時には一枚のレシートさえも大切になってくる。
このには、税務署は、領収書のフォーマットを明確に定義していない、とあった。特に使用する用紙に規定はないようだし、朱印も必要がない。
しかし、しばしば手書きの領収書の場合は印鑑が押されているものが多いような気がするが。日本はまだまだ印鑑社会かな。話はずれますが、事務的な書類にも意味なく捺印の蘭があったり・・・


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いつの頃からか、水道水をそのまま飲むという習慣がなくなり・・・

『「ハンバーガーを待つ3分間」の値段』齋藤由多加著より。

この一冊はたまたま書店で目にしたから衝動買いで買った本だが、実に身近で見逃してきたことなどを思い出させてくれる。他人にとってはつまらないことも、自分には昔を思い出させてくれることもある。
そういえば、小中学生の頃は運動をして汗をびっしょりかいたあとで、水道の蛇口に口を近づけてがぶがぶと飲んだものだった。それがひんやりして実にうまかったことを思い出す。
しかし、大人になるにしたがって水道のからの水をそのまま飲むのはよほどのことがない限り避けたいと思うようになった。身体に悪影響を与えそうないろいろな物質が含まれているからと思われるからだ。
たとえ薬を飲む際にもペットボトル入りの飲料水で飲むようになってしまった。数年前までは自販機で水を買うなんて考えられなかったが、今ではときどき買ってしまう。
喉が渇いた時には、烏龍茶よりもジュースよりもやはり水が一番おいしいと思える。汗をかいたあと、水道水をそのまま飲んでいたあの頃が懐かしい・・・