一所懸命で書いたものには返事がある。

「月刊現代」2009.1月号より。
おそらく多くの方は小池邦夫さんと聞けば、すぐに絵手紙の創始者であることはご存知のことでしょう。その小池さんと23年間もの間、やり取りをしていたのが緒形拳さんでした。
(ここではあまり関係ありませんが、個人的な好みでいえば、素晴らしい俳優だと思えるのは緒方さんと西田敏行さんですね。どちらの演技にはいつもうならされます。緒形さんは71歳で、あまりにも突然に亡くなられたので驚きました。)
たまたま小池さんの個展に立ち寄ったことが、絵手紙の交流のきっかけだったようです。毎年何度かやり取りをしているうちに23年も経ってしまったようです。そして言葉を交わさなくても心は伝わったと小池さんは語っています。実際に会ったのはその後は一回きりで、それも会話は一切なかったといいます。
絵手紙は単なる形式的な挨拶というよりもむしろ作品の交換ともいえそうです。ですから、小池さんは「儀礼的や万年筆で書いたものには返事が来ない。緒方さんのことを考えて一所懸命でかいたものには返事がある。まさに試されているようでした・・・」と語っています。
緒形さんはまた書もされていて、それは趣味の枠を越えて書家の領域に達していたようです。密かに画家で書家の中川一政に師事していたのでした。そして個展も開いていました。やはりそんなところも、深い演技の裏付けになっていたのでしょうか。

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プロの見物人・・・
「月刊現代」2009.1月号より。
実はこの月刊誌はこの号で休刊となってしまう。多くの月刊誌が廃刊や休刊に追い込まれるなかで「月刊現代」もその例外ではなかったようだ。数年前から時どき読んでいただけに残念でもある。それを記念して多くのノンフィクションライターが書いていた。二宮氏は16年間にわたってこの雑誌でノンフィクションやインタビュー記事を掲載してきていた。
上記フレーズはスポーツライター二宮清純氏にとっては大先輩にあたる佐瀬稔氏(故人)が述べたことだった。実に聞きなれない言葉で面白いと思った次第。いったいどんな時にその言葉を使ったのか気になった。
スポーツジャーナリスト、ノンフィクション作家であった佐瀬氏は酔うと、決まって「オレたちはプロの見物人だ」と声を張り上げたという。そして、実際には野茂英雄メジャーリーグデビュー戦、二宮氏がグラウンドに入るとピンクのジャケットが飛び込んできて、それは当時62歳の佐瀬さんだったのだ。
二宮氏が「どうしたんですか、その派手なジャケットは?」と問うと「今日は野茂の記念すべき門出なんだ、見物人がこのくらいオシャレをしなくちゃ彼に失礼だよ」と言ったそうだ。そして振り向きざまジーパン姿のTVディレクターに次のように怒鳴ったのだ。「キミたちはそれでもプロの見物人か!?」と。
二宮氏はいくつになっても、この気持ちだけは忘れないでいたいという。「プロの見物人」とは考えれば実に深い意味合いがありそうだ。ただ単なる観客なら誰にでもなれる。しかし、見物人のプロはやはり見る心構え、見る箇所、見る深さが違うのだろう・・・な。


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仮に定価1500円の作品が2万部売れても・・・

「月刊現代」2009.1月号より。
これもこの月刊誌が休刊するのにともなって、この雑誌に今まで連載してきたライターの一人佐藤優氏が語っていたことだった。氏は『国家の嘘』という連載をこの雑誌で1年継続していた。そして、もしこの月刊誌がなければこの作品を仕上げることはできなかったとも述べている。
つまり、作家にとっては媒体である雑誌は作品発表の機会でもあったのだ。しかも、取材を支えてくれる元にもなったに違いない。作品がたった一人で出来上がるというわけではなく、何人もの編集者の手を経て作品へと仕上がっていく。
本格的な書き下ろし作品を作る場合、佐藤氏は次のように述べている。「構想から取材、雑誌掲載を経て単行本になるのに3〜5年はかかるらしい。出版不況の中でノンフィクション作品が10万部の壁を超えることは難しい。2万部も売れればいいほうだ。仮に定価1500円の作品が2万部売れても印税は300万円だ。作品を売るのに3年かかるとすれば、1年あたりの収益は100万円で、これでは生活を維持することはできない」と。
実際は売れるかどうかわからないものに、時間と労力を割くだけでもかなりのプレッシャーがありそうだな。

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「古い物は直すだけ損です。第一部品がありませんよ」
「人はどれだけの物が必要か」鈴木孝夫著より。
上記は電気製品などの修理をを販売店に問い合わせるとそんな答えが返ってくるが、筆者はその言葉を絶対に信じないという。要するにこちらに少しの知識があり、面倒や時間を惜しまなければ、ほとんどの製品が修理費もかけずに、再びちゃんと立派に使えるようになるものだという。これは氏自身の経験から語っている言葉なので、真実にちがいない。
しかし、実際のところ製品についての知識も乏しい場合は、メーカーや販売店に言われるままになってしまうことが多そうだ。故障した場合、その度合いにもよるだろうが、直すべきか買うべきか大いに迷うものだ。
小さいものなら、深く考えずに買った方が得な場合もあるが。単なる部品の交換で済む場合はその方が安上がりだろう。しかし、ここでやっかいなのは新製品にはそれまでなかった便利な機能がついていたり、省エネ対策で電気代が安くなるなどの場合だ。
自宅では夏あたりから屋根の上のソーラーシステムの調子がおかしいので修理をしようと思って、メーカーに問い合わせたらもうその製品の取扱いはないらしいことがわかったのだ。買ってもかなり高額にになるので、あえてソーラーは使わなくてもいかな〜などとも考えている次第・・・(エコを考えれば太陽の熱はもったいないが)


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ふろしきイコール古くさいというイメージを払拭すること・・・
「相鉄瓦版」2008.12月号より。
ふだんの生活ではほとんどふろしきを目にすることも使う機会もない。扇子やうちわ、ぞうりなどとともに実に、日本の伝統的アイテムの一つだ。上記は“ふろしき、はじめてみませんか?”というタイトルで京都和文化研究所「むす美」のアートディレクター山田悦子さんが語っていたなかにあったフレーズ。
ふろしきの語源は漢字にするとわかりやすい。つまり「風呂敷」となって、もともと入浴時に脱衣所に敷いた布の上で身繕いしたり、行き帰りに着替えを包んだというものだ。
またもう一つは、かなり昔からある「包むための布」の文化からきたものだ。ここには次のようにあった。「奈良時代には正倉院に納める宝物、平安時代には貴族の装束を包み運ぶ布」だったようだ。
「包みの文化」の歴史はなんと、1200年以上もまえから続いていたのだ。物を大切に扱ってきたこともうかがえる。しかし、今では使い捨ての紙袋が増えたせいか、粗末に扱うことに慣れてしまったようだ。
いずれにしてもふろしきを使うチャンスがほとんどなくなったようにも思える。考えれば、四角い布一枚でいろいろな形のものを包め運べるのは便利なもの。色柄も豊富でその包んだ結びや形も一種のアートにさえ見えてくる。
バッグのなかに一枚忍ばせておいて、預かりものやいただき物の際に、さりげなくサッと取り出して包めたらけっこうカッコいいだろうに・・・。