もっとも基本的な「話す」という行為について、教育もされていないし

「人を10分ひきつける話す力」齋藤孝著より。
そういえば、振り返ってみれば、小学校から大学まで16年間の学校教育では話すことについて学んだ覚えがない。国語の授業を考えても読んだり書いたりすることがメインだった。
いくら難しい漢字を読み書きしても、それが実際の日々の生活のなかで出てくることはなかったりもする。ほとんどは読解力などの読む部分に時間がかけられていた。書くこともあまりしていない。話すための教育はまったくなかったかもしれない。
昔はよく読み書きそろばんという言葉も聞かれその教育はあったと思われる。そして「話す・聞く」は当然だれでもできるのが当たり前と考えられていたのだろうか。
きっちりと対話する、人前で話をするなどはまったく抜けていた。話すためにはそれなりの準備も必要だった。つまりネタということになる。そのネタの多くは本や人からの話だと思われる。たんなるおしゃべりではなく内容のある対話などすっかり忘れていたな。
日頃からネタの蓄積はポイントのようだ。ここに面白い比喩のセンテンスがあった。・・・「話す」とは、自分の脳という冷蔵庫の中からネタを選び、料理し、聞き手に食べさせる行為だ。
ということはネタはいつも新鮮な状態で、話し手である料理人もいい腕を磨いておかねば、ということだろうな〜〜

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受けるネタとは、話にきちんとオチがあるものだ。

「人を10分ひきつける話す力」齋藤孝著より。
それにしても、この一冊からはいろいろと学べることが多い。受けるネタは、聞き手を「ほぅ」と納得させるか、「ハハハ」と笑わせることができるものだと、齋藤氏は述べている。
そこで、話の名手として永六輔さんを引き合いに出している。永さんの話にはオチがあるという。しかもおトク感まで演出されているのだ。おトクとは聞いていて新しい知識を得られたということだろう。
永さんが、作家の井上ひさしのことを語っている部分があった。「井上ひさしという友だちがいます。彼がいちばん大事にしているのは、“難しいことを面白く、面白いことを深く、深いことを易しく”で、これが物を書く時の大前提なんです。彼はそういうことを考えているから、原稿が遅くなるんです。(笑)」
と、こんなふうにほとんど前置きなしで話しはじめている。“難しいことを面白く〜〜”の部分は永さんが直接井上ひさしに聞いて得た知識を話しているのかもしれない。話している様子が目に浮かぶようだ。話にサービス精神があれば、聞いているほうも楽しいに違いない。

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話だけで勝負するのではなく、関連した物を持参して見せると効果は大きい。
「人を10分ひきつける話す力」齋藤孝著より。
これは単純に納得できそうだ。聞いている話だけでは抽象的でわかりにくかったりすることもあるが、そこにモノがあれば“ああ、このことか”というふうに理解しやすそうだ。
たとえば、「渾身」という言葉を説明しているときに、上着をパッと脱いで「渾身」と書いてあるTシャツを見せる。すると聞いている人にはこの人はここまでするのか。それほど「渾身」に思い入れがあるんだとわかってもらえると齋藤氏は語る。
そして、実際にテレビの「徹子の部屋」に出演した時には「上機嫌Tシャツ」をつくって持っていたら話が盛り上がったという。そのウラには「意味もなく」と刷ったという。これでは話が盛り上がらないわけはないだろうな。
そい言えば、自分もかつて人に会う前にハンドメイドの一筆箋を粗品で手渡していた一時期があった。それが主に寒い季節だったので「冬のソシナ」とネーミングしていたっけ。当然ながらそこにはShozandoの文字も印刷してあるが。
すると、そのハンドメイドの一品だけでかなり話が盛り上がり30分以上も話し込んでしまったこともあったな。やはり買ってきたものじゃそうそう話は盛り上がることはないだろう。ポイントはオリジナルな物ということでもあろうか。(またはストーリーがあるもの。)