まともであることも善し悪しだ。

「感動をつくれますか?」久石譲著より。
久石さんはベテランの作曲家で、長年にわたって宮崎駿監督のアニメ映画作品の作曲を数多く担当している。最近では「崖の上のポニョ」もそうだった。また北野武監督映画でも作曲をしていた。それだけ信頼されるのはすごいことでもあるな。
さて、そんなものづくりの人間にとっては「まとも」という言葉は恐怖の刃ともなるらしい。もし、音楽制作を頼まれた監督に、「今度の作品のテーマはこれでいきたいと思う」と言った時、「まともだね」と言われたらそれでは不十分だという意味と同じだろう。
つまり、意外性がない、クリエイティビティが乏しいと言われているのと等しいことになるのだ。普段の生活をしているなら、「まとも」であることは結構なことでもあるが、仕事によってはダメとイコールの意味に変わってしまう。
この場合の「まとも」は「ありふれていて面白みがない、誰でもそこまでは考える、作品としては価値がない、対価を払うに値しない」などを意味するのだろう。実際は、“まとも”な生活ができればいいんでしょうが、フリーターやニートと呼ばれる人たちにとっては、それ自体がかなり困難なことかもしれない。
とはいっても、こんな低迷した経済状況では、たとえ今現在まともな生活をしていても、その“まとも”な状況を継続するのさえ難しい気もしてくるが・・・


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「絵を描く人人は変わった人が多いけれど、それには理由がある」
「感動をつくれますか?」久石譲著より。
先日観た映画「アキレスと亀」では売れない画家(北野たけし)が主人公だった。それも子どもの頃から実に絵画の世界にのめりこんでしまって、一生そのまま変わっていない。本当に一般人からみれば、実に変わった人間に映る。
だからこそ、このフレーズに出会ったとき気になった次第。上記フレーズは久石さんがラジオ番組に出演しているとき、養老孟司さんから聞いた言葉だった。養老さんの説明によれば、音楽や文学や映画などは時間の経過の上に成り立ってるという。そして、それらはみな論理的構造をもっているものだった。
それに比べると絵は、見た瞬間に表現するものが伝わってくる。またその作者もその場でのひらめきで作品を作ってしまうこともある。論理よりもむしろ感覚的なものの比重が高いということだろう。
だから、常識を逸脱し、自由に破天荒に生きる画家がいたりすることがある。ゴッホは耳を切り取ったあとも、自画像を描いていたし。先ほどあげた「アキレスと亀」の主人公も死をも恐れない、まさにそんな生き方をしていた・・・な。