人間の脳はサプライズを好む。

「暮らしの風」2008.10月号より。
茂木健一郎さんの「暮らしのクオリア」というエッセイのなかのワンフレーズだった。この日のタイトルは“アインシュタインのレストラン”というもので、氏が学生時代に東京近郊へちょっとした小旅行をしたときのあるレストランでの思い出が書かれていた。
そこはイタリアンのレストランだったらしく、パスタやワインで食事をしていた。すると、カウンターの中には茂木さんンが子どもの頃から尊敬していた、アインシュタインにそっくりな顔をしたおじさんがいたのだ。
それが氏にとってはサプライズだったようだ。そんな偶然の出会いに、脳内快楽物質である「ドーパミン」が放出されたという。氏は勝手にアインシュタインのレストラン、と思いながら得をした気分になったという。
しかしその後、数年続けて行ってみたが会えなかったという。そして、思い切って「この店に、アインシュタインに似た方がいらっしゃいませんでしたか?」と尋ねている。すると、その店の経営者の親類の方で少し前に亡くなっていたことがわかったという。
やはり、自分にとって素晴らしいサプライズの思い出というものは何十年たっても忘れないものかも。誰にでもきっとそのような、宝物のような思い出はあるのだろう。
昨日あったことはすぐに忘れて思い出せないのに、そんな遠い昔のことは意外に記憶に残っているもの。自分にとっては30年以上前に油彩画の全国公募展で初入選した時だったかもしれない・・・な。

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ほとんどの人は、失敗が続くことで負ける。
「ここ一番にリラックスできる50の方法」中谷彰宏著より。
たとえ何連勝もしても、それを上回る負けがあれば、結果的に負けになってしまう。たとえ一回ミスしても、その後に勝ち続けられれば成功ともいえる。成功を続けるためにはやはり精神力が問題になってくるようだ。
氏はサッカーを引き合いに出している。サッカーはルールと一緒にスピリットをもたらしたようだ。そのスピリットとはラテン・スピリットだという。これはその瞬間に生きるという意味でもあった。
サッカーではしばしばゴールが決まると、大きなガッツポーズが見られる。これがラテン・スピリットで成功した瞬間を喜び、またすぐに忘れてしまうということであった。もちろん、失敗しても同じくすぐに気持ちを切り替えて忘れてしまう。
もともと日本人は、勝っても負けてもしみじみとして余韻を楽しむことがことが多かったようだ。そして、むしろ「根性」「一生懸命」という気持ちでスポーツをしてきた。これがラテン・スピリットになると「リラックス」「エンジョイ」となるらしい。
これはいい加減ということではなかった。当然ながら、勝つためにとことん努力するのが一流人ということになるかな。失敗は続けない・・・(という精神的パワーが持てるうちはいいがなぁ〜)

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つい手狭なわが家の庭を忘れて植えてしまう。
「回転どあ/東京と大阪と」幸田文著より。
これは“いのち”というテーマで書かれたエッセイのなかにあった一文だった。ここでの、“いのち”とは竹のことだった。その勢いのすさまじさに驚かされたという話だが、それは竹を一度庭に植えたことがある人なら経験しているのではないだろうか。
実は私の家の庭にも竹があるので毎年それを痛感している。孟宗竹のような大きなものではなく、直径3〜4センチほどのものだが、20年ほど前に庭が殺風景だと寂しいからと3本ほど買ってきて庭の片隅に植えておいた。
はじめの4,5年は涼しげでよかったものの、その後は毎年6,7月の梅雨時になると大量に芽を出すようになってしまった。結局そのままにしておいたら庭が竹やぶになってしましそうなので、数本だけ残して伸び始めに根元から切るようにしている。
ここに書いてあったのは、あるお宅では床下から筍が伸びてきて、畳を押し上げたようだ。それは、えたいの知れない生きものに出合った思いであった、とある。本当に竹は地中深くに根を張っていて、勢いがつき出すとどこから芽を出してくるか想像もつかない。
このエッセイでは、「竹は、生きるいのちの無気味を知らせてよこす植物だ」という結びになっている。何となく実感!だから、はじめに竹を庭の片隅に植えてしまったことを後悔している次第。


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新年原稿というものは、あれはみんな旧年原稿である。

「回転どあ/東京と大阪と」幸田文著より。
当たり前だと言えば、当たり前なことだろう。新聞にしても、雑誌にしても、会報、フリーペパー、広告の文章・・・。あらゆるものの新年向けの印刷物は旧年に作られている。身近なものでは年賀状がそうだろう。
「新年明けまして・・・」とは印刷されたり書いてあっても、それは旧年に書いていること。そして、年が明けてから一斉に表に出てくる。それは当り前のこととして受け取っている。
実際はどんなに新鮮な正月が盛られていても、去年あるいはそれ以前の正月の風景になっているもの。幸田さんは、年の暮に新年用の原稿を依頼されていた。そんな時は、その年の正月のことで、11か月のストックに堪えて記憶に残っているものを書いていたという。
要するに、元旦に出かけた時の正月風景を見て、目に留まったものを取材してストックしておくということだろう。といっても、そのすべてが使えるわけではないらしい。ごく少ない印象に残っているものだけが使えるということだった。
先日、大型電気店に行ってみると、もう年賀状ソフトの新しいバージョンが山積みにされていたっけ。なんだかあわただしささえ感じられてきた・・・な。