まだ発売されてもいないゲームの全国大会・・・

「未来を切り拓いたモノ創り」より。
このゲームとはオセロだった。1973年4月に「オセロ」の日本選手権大会が帝国ホテルで開催されていた。商品自体が発売前だから、当然人なんて集まるわけはないと思う人が多かったようだ。
ところが、これを企画した長谷川五郎氏はかなりの自信があったようだ。そして、当日は参加者、見物人が合わせて200人以上詰めかけたという。
「オセロ」は長谷川氏によって発案され作られたゲームで、現在各国に、5000万人から6000万人のファンがいるという。世界共通のゲームとなっているのがわかる。そんなゲームの始まりは牛乳瓶のフタだった。
たいていの人は一度くらいはどこかでこの簡単なゲームを楽しんだことがあるだろう。何しろルールが簡単だから子供でも数分で覚えてしまえる。数か月前に親戚の小学一年生と真剣にやってみたら意外にも強すぎて簡単に負けてしまった。
純粋な遊び心から生まれたゲームも、成功すれば世界的なゲームにまで発展してしまうという証拠だろう。世界で通用するシェークスピアの戯曲をモチーフにしたネーミングもよかったのだろうな〜。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

発想、情熱、技術は三位一体!この三つが化学変化を起こしたとき、不可能が可能に!

「未来を切り拓いたモノ創り」より。
この本のページを捲っていくと、いきなりどこかで聞いた、いや知ってる人の名前が出てきたのでちょっと驚きだった。この章のタイトルには「現代水族館の礎を築いた型破りな公務員」とあった。プロフィールには「水族館の巨大水槽を作った男」とあって杉浦宏さんの写真もあった。
何年か前にたまたラジオを聴いていたとき「全国こども電話相談室」があったので、その時にはお魚博士だなというような印象を持っていた。しかし、初めて巨大水槽を作った人とは知らなかった。
杉浦さんには15、6年ほど前に数回お目にかかったことはあった。しかし、まさかそんなに大きな仕事をされている方だとはまったく知らなかった。この本で初めて知ったくらいだった。
過去のガラスの水槽では強度面から大きさに限度があった。しかし、それを透明なアクリル板で作ろうという発想で試行錯誤した結果ようやく大型で透明度のある水槽を作ることができたのだった。
また同時に水のろ過も大変な作業だった。それも上野動物園の飼育係という公務員自分のクビをかけて成し遂げていた。実に情熱のこもった仕事をしていたのだ。
数百トンの水に耐えられ透明度を保てるアクリル板、急速濾過機の設置などの技術によって初めて巨大水槽が可能になっていた。一見すると何気ない巨大水槽にも成功するでに苦労の連続があったことを知ることができたな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「人生、縁がすべて。あいつが高給取りになったのはオレのおかげ」
日経新聞、夕刊」2008.9.1付けより。
楽天の野村監督の言葉だった。“あいつ”とは阪神タイガース赤星憲広選手のことだった。赤星(32歳)は推定年棒1億8000万円だが、それもプロの一流プレーヤーとして活躍できているからだった。
その元を作ったのは野村監督は自分との縁があったからだという。赤星は愛知の大府高校時代から俊足は注目されたものの、170センチ66キロと小柄だったためにプロ入りは見送られていた。
亜細亜大を経てJR東日本にいる時にシドニー五輪の代表入りしてから、たまたま2000年に代表候補選手の強化一環で阪神の春季キャンプに参加したのが運命の分かれ道だった。当時阪神の監督だった野村氏の推薦でノーマークだった赤星はドラフト4位で阪神入りしている。
それは、野村が現役の南海の捕手時代に通産1065盗塁の阪急、福本豊に苦しめられたからだった。つまり足があればかき回せる野球ができることが分かっていたのだ。野村は赤星の俊足の価値を認めていたからこそ欲しい選手だった。
赤星はその期待を裏切らず、入団1年目から39盗塁で盗塁王と新人王のダブル受賞していた。また2003年からは福本以来となる3年連続60盗塁以上をマークしている。
そんな、赤星の背番号は53で「誤算」読めるから入団時は屈辱を感じたらしい。でも、考えようでは51のイチローと55の松井の中間だから、けっこういい背番号ではないだろうかな〜

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


胸を突き破って蛍が飛んでいくというイメージ・・・
「代表的日本人」齋藤孝著より。
とくに演歌好きの方でなくても、これだけでかつて森進一がヒットさせた『北の蛍』を思い出すかもしれませんね。この作詞は昨年亡くなった阿久悠さんでした。
齋藤氏はこの歌は激しい情念を歌った和泉式部の和歌をふまえたものと考えていた。その和歌とは「物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂かとぞみる」だったのです。
そして同じく近代では千年の時を経て与謝野晶子が感情の解放という面で女性歌人の第一人者となっている。要するに情念のすさまじさを歌いあげている点で和泉式部とも共通しているようだ。
晶子のパワーは短歌だけでなく、結婚して12人の子供を産み育て、さらに社会的な活動に活発に参加していた。実に明治女の強さ、底力さえ感じさせる。この千年を振り返ってみれば、最も存在感を示した日本女性の一人だったようだ。
この本の第一章は「与謝野晶子の女性力」というタイトルだった。名前だけは知ってはいても実に知らないことばかりが多いと痛感させられたな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「武」が日本文化の中の最大の輸出品目・・・
「代表的日本人」齋藤孝著より。
まずは、嘉納治五郎という名前を聞いてすぐに、日本の柔道の創始者だとわかる人はどれほどいるだろうか。かつていろいろな種類の柔術があったが、それを一つの柔道という形式としてまとめ上げ講堂館柔道を創設した人物だった。
しかし嘉納は単に柔道を広めただけではなくむしろ日本を代表する教育者だった。そして文武両道を狙いとした教育の一環として柔道を教えていたのだ。教育が先にあって次に柔道がきていたということになる。
今では日本から世界の柔道になっている。むしろ日本より世界での方が盛んではないだろうか。五輪でも日本は容易には勝てなくなってしまったし。嘉納が世界に広めたスポーツが五輪の正式種目になるとはすごいことでもあるな。
小さい頃から英語とドイツ語も勉強していたという。嘉納自身は東京大学東京帝国大学)を出た国家的エリートだった。そして若い頃から学習院で教えながら自分で道場を運営していた。また東京高等師範学校の校長を27年間も務めていた。ここは教員養成の総本山だった。
ついでながら、夏目漱石が松山に行って教鞭をとったのも、嘉納に言われたのがきっかけだった。もし行かなければ「名作『坊ちゃん』も当然生まれてなかった。それは漱石が松山で教師をした経験が作品の元になっているからだ。
さらには、講堂館の道場開きの際には勝海舟も来て、その素晴らしい道場に感動して揮毫までしていた。いろいろな歴史上の人物とも交流があった嘉納が、学校の教科書にも出てきてはいないのが不思議なくらいだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

意識していないものは見えない。
朝日新聞、日曜版」2008.8.31付けより。
「スポーツラボ」というコーナーでサッカーのジャッジをする副審の能力について書かれていた。かなりのスピードで動きまわっているプレー中では、好プレーとファウルの判断は紙一重だろう。しかもボールの動きは人の動きの数倍も早い。
そんな中でも走りながらジャッジを下さなければならない審判は大変な熟練を必要とするだろう。当然ながら審判の能力はさまざまだ。視覚機能が高いことは必要だが、それだけでは十分ではない。情報収集能力が高くなければ正確な判断は下せない。
いい審判はどこを見るべきかがわかっているという。瞬時に目からプレーに関する情報を集めて判断する能力がすぐれているのがいい審判と言える。たとえファウルの場面でも、それを受けた側に有利なら流れを止めないのも力量らしい。
いい審判は目配りがいいというのが結論のようだ。要するにボールの動きだけにとらわれないことだった。守備ラインの位置、パスを出そうとする選手と受けようとする選手、そしてボールと複数の情報を同時に意識してオフサイドなどの判断を下している。
実際の仕事ではそれほど真剣に集中して物事を判断することはないな・・・。かなりぼけーっとして機会を失っていることが多そうだ。たとえ目を開けていても、意識してないと大切な情報も見逃している・・・な。