流行歌は手っとり早い時代の索引・・・

阿久悠のいた時代」柏書房より。
これはとくに決まった著者によるものではなく多くの人の追悼文や過去のエッセイなどをまとめた一冊だった。そのなかで、上記は作家の井上ひさし氏が書いていたなかのフレーズだった。さすが小説家の表現はさりげなく、うまいと感じた次第。
このエッセイのタイトルは「また逢う日まで」と尾崎紀世彦が歌ったものが用いられていた。井上氏にとってはこの歌は1971年前半期の役を果たしているという。阿久さんの作詞だったこの曲は、この年のレコード大賞日本歌謡大賞を受賞していた。当然ながら当時は多くの人に口づさまれた曲でもあった。
流行歌はイコール歌謡曲といってもよさそうだ。とくに自分が若かったころの歌は頭のどこかに残っている。そして、その曲が流れてくると当時のことを思い出すことはある。学生時代に流行ったフォークソングなどは時々懐メロ番組でも放送されるが、そんなときは自分の学生時代の友人の顔さえ思い浮かぶ。
井上ひさし氏にとっては、昭和10年代から今日までの流行歌の歌詞の載っている本が一冊座右にあればそのページをめくるだけで過去に帰ることができると述べている。もし、これが自分だったら昭和40年前後くらいからだろうか。
そういえば、私が学生時代アルバイトをしてステレオセットを買い、初めて買ったLPレコードは「京都から博多まで」(阿久悠作詞)だった。“肩につめたい小雨が重い 思いきれない未練が重い〜♪”何度口づさんだことだろう。
もし今の20代なら藤圭子の娘の宇多田ヒカルの曲こそが時代の索引になるかもしれない。これを書きながらふとそんなことまで思ってしまった・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

各社のコラムが同じテーマを扱うことは意外に少ない・・・

阿久悠のいた時代」柏書房より。

追悼文集のなかで朝日新聞2007年8月17日付けのものが掲載されていた。「阿久悠さん逝く」と題して上記のフレーズは池上彰さんが書いていたものだった。
池上さんは面白いことに気づいていた。それは毎日、読売、朝日のどの新聞社のコラムでも昨年の8月3日には阿久さんのことを取り上げて記事にしていたことだった。
さらには、東京新聞のコラムにも掲載されていた。それだけ関心が高かったという証拠でもあるだろう。昭和を代表する作詞家だと誰もが思ってるに違いない。たとえレコードやCDを買わなくても知らず知らずのうちに口づさんでいた曲は多いに違いない。
ジャーナリストとしての池上さんは、これらの各社の名文ともいえるこれらのコラムの競演を並べながら上から眺めて書いている点が面白いと思った次第。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうやら秘話に類する話ではなかった・・・
阿久悠のいた時代」柏書房より。
(前日のつづき)
池上さんの文章のあとには、たまたまここには4社のコラムがそのまま掲載されていた。ついでに、各社のコラムから初めの数行だけを抜粋してみよう。
天声人語朝日新聞)・・・『冬の曲もあるけれど、亡くなった作詞家の阿久悠さんは「8月の人」だろう。瀬戸内海の淡路島で終戦を迎え、8月15日をつねづね第二の誕生日だと語っていた。・・・』
○余録(毎日新聞)・・・『「阿久悠作詞憲法」は全15条から成る。その第1条は「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか」だ。作詞家の阿久悠さんにとっては、同い年の大歌手、美空ひばりさんが歌いそうもない歌を作るのが大テーマだった。・・・』
編集手帳(読売新聞)・・・朝、グラスに昨夜の酒が残っている。男がいる。ぼくが書く詩の男は、起き抜けに酒を流しに捨てるだろう。なかにし礼さんが書く詩の男は多分、グラスをそのままにしておくだろう・・・。ある対談で阿久悠さんが語ったことがある。・・・』
○洗筆(東京新聞)・・・『数ある阿久悠さんの歌はみな好きなのだが、石川さゆりさんがレコード大賞を取った「津軽海峡・冬景色」の歌を思い出し、上野発の夜行列車下りた時から…雪の青森駅になる場面転換のうまさに、いつもしびれる。・・・』
朝日、毎日で“阿久さんが美空さんと同い年(昭和12年生まれ)”、という部分はともに共通していた。また、その両社のコラムでは“美空ひばりさんが歌いそうもない歌”を秘話に類する話としているがどちらも出典は同じだったようだと池上さんは指摘している。さすがジャーナリストを感じさせますね。(今日は引用が多くていささか長くなってしまったか。)