写真俳句は森村誠一氏の登録商標・・・

下記は氏のブログにあったことだった。
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新しい表現の発見 もともと歌人か詩人になりたいと願っていた私は、小説を書くようになってから、角川春樹氏や横山白虹(はっこう)氏の影響を受けて俳句を詠(よ)むようになった。わずかな核から、雲のように作品世界を脹らます小説と異なり、俳句は悠久の歴史や壮大な世界を十七文字に凝縮する。小説とは正反対の極致にある。

 あらゆる創作のジャンルにおいて、受取り手がいなければ創作物は存在しない。文芸には読者、美術には鑑賞者、音楽には聴衆、映像、演劇には観客がいて、初めて作者や製作者や役者が表現したものが存在するのである。受取り手なき表現は、表現たり得ない。

 たとえば不朽の名作が、作者以外はいない無人島で創作され、作者の死亡と共にだれにも見られることなく滅失したとすれば、作者も作品も存在しなかったのと同じである。社会における表現はすべて受取り手を伴ってこそ表現たり得る。

 だが、芸術諸分野においては、受取り手が作品にどんなに感動しても、簡単に受取り手から作家に変わることは難しい。

 ところが、芸術諸分野の中で、特に文芸の俳句においては、読者から作家に最も簡単になれる。だれでも五七五音を詠むことによって作者になれる。突然、芭蕉や子規のような名句が詠めるわけではないが、凡句ではあっても俳句であることに変わりない、

 わずか十七文字で、作者が生きている世界、作品宇宙を切り取り、凝縮するだけに、俳句の奥行きは深い。数千枚を擁する大長編を十七文字に凝縮できる芸それだけに秀句と凡句の差は著しい。読者から作家に最も簡単になれても、感性と才能に恵まれなければ、なかなか秀句は詠めない。

 だが、落胆することはない。凡句を積み重ねているうちに秀句を収穫できるようになる。ビッグネームの俳人にも凡句は多い。死屍累々(ししるいるい)凡句の上に秀句が輝いているといってもよい。

 俳句は凝縮の文芸であるだけに、俳句を始めると、ものの見方が深くなる。毎日見馴れている平凡な風景や、出逢いや四季の移ろいなども、俳句を通して眺めるとき、特別の風合(ふうあい)を帯びる。俳句と親しむようになってから、世界がより深く、広くなったような気がした。

 「俳句前」には見過ごしていたような風景や出逢いに、これは俳句になるという予感を持つようになる。この瞬間はまだどんな俳句に実るかわからない。ただ、予感が走るだけである。

 私は散歩の都度持ち歩いているデジタルカメラで、予感が走った光景を撮影するようになった。後で撮影した影像をじっくりと観察している問に俳句が生まれる。時には俳句が閃(ひらめ)いてから撮影することもある。

 いつの間にか私の俳句と写真はセットのようになってしまった。趣味で詠んでいた俳句を、ホームページに写真と共に掲載してみた。すると、なんということはない句が写真とワンセットになると、意外に面白いことを発見した。同時に凡写が俳句に侍(はべ)ると、これまた意外に精彩を帯びる。写真と俳句がそれぞれ相補い、一体となって独特の写真俳句世界を表現した。

 複雑な器材や付属品はいっさい使用しない。小型のデジカメだけである。

 写真もカメラを持つことによって、受取り手から簡単に写真作家となれる。俳句にも写真にも素人が、この両者をセットにして、合わせて一本の秀句名写真をものにできるかもしれない。「歳時記」や俳句誌に写真が挿入されていることがあるが、あくまで俳句主、写真従である。私は、俳写同格、一句ワンショットに対置した。

 私はデジカメを手に俳句をひねりながら、人生の大きな表現の楽しみを発見したとおもっている。写真俳句は私にとって新しい表現の発見であった。
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数千枚を擁する大長編を十七文字に凝縮できる芸は、俳句だけである。

森村誠一氏の写真俳句ブログより。
氏が考案したのは「写真俳句」という新しい表現方法だった。推理作家がこんなものを思いつくとは意外な気もするが、若いころには歌人か詩人になりたいと思っていたという。
そもそものきっかけは散歩だったようだ。作家は家で書いてばかりいるので運動不足になるので散歩をするようになったのだ。散歩の都度デジカメを持ち歩いて、思いついた俳句とセットにして表現するようになったという。風景や撮った写真を見ながら俳句を思いつくこともあるようだ。
あるインタビュー記事のなかでは「松尾芭蕉の“夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと”は、わずか17文字。その中に何百年という歴史が詠み込まれている・・・」と風景や季節を凝縮する素晴らしさについても述べている。これは小説とは全く反対の表現だという。
「毎日見馴れている平凡な風景や、出逢いや四季の移ろいなども、俳句を通して眺めるとき、特別の風合(ふうあい)を帯びる。俳句と親しむようになってから、世界がより深く、広くなったような気がした。」と述べている。
最後の方には「人生の大きな表現の楽しみを発見した」とも述べている。これが素晴らしい。私たちもまた自分にとって新しい表現方法を見いだせれば新たな生き甲斐にもつながると思えるが・・・
蛇足ながら「写真俳句森村誠一氏の登録商標です。」ともあった。写真俳句のブログ。



別のインタビュー記事では次のようにも語っている。「例えば、私の小説『人間の証明』は400字詰め原稿用紙700枚を使って書かれています。ところが、松尾芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと」は、わずか17文字。その中に何百年という歴史が詠み込まれているのです。」


とあった。最後の人生の大きな表現の楽しみを発見した、というところが素晴らしい。我々もまた自分にとって新しい表現方法を見いだせれば生き甲斐にもつながるだろう。