興味と智識という陽と雨によって、・・・

「こぼれ種」青木玉著より。
まずはじめにこのフレーズが含まれる段落だけ抜き出してみたい。
〜〜母という感情の苗床には、草の種も花の咲く木も癖のある木もさまざまなものが育ってきた。六十の半ば過ぎ、日常にゆとりが生じて、興味と智識という陽と雨によって、それは一斉に芽吹き、十余年の歳月は『木』という作品にまとまっていった。〜〜
実に味わい深い比喩がちりばめられている。“感情という苗床”などという表現はなかなか思いつかない。すでに、ご存じの方も多いとは思いますが、この筆者の青木玉さんの母が幸田文でその父が幸田露伴ということになる。さらに、青木さんの長女奈緒さんもまたエッセイストでした。
実に四代も続いてモノ書きを仕事をしているのはちょっと珍しいかもしれない。『木』についてはすでに、今月初旬(11/2)の日記でもそのワンフレーズを取り上げていた。幸田露伴の名前も『五重の塔』という作品名も学生時代から知っているのに読んだことさえなかった。
むしろ、先に幸田文青木玉青木奈緒さんらの著書を先に読んでいた。この『こぼれ種』は文庫本ではあるが、植物のカラー写真も多く掲載されており、わかりやすく楽しめた。内容は単に見かけた身近な植物について触れているだけではなく、わざわざ遠くまで取材に出かけ丹念に書かれている。
しかも、その取材の最中にも解説だけでなく自らはどう感じたかも丁寧に述べられている。そして、時おり母親や祖父のことも思い出しながら触れている。そんなところからも肉親への尊敬さえも感じられる。それは抜粋した部分にも感じられた次第。

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生きて好まれ、命終わってなお価値を認められる。
「こぼれ種」青木玉著より。
そのあとには、次の一文があった。「人もかくてこそ、ちょいとなれるものならあやかりたいと思う木だ。」と。
つまり木について書かれた部分だったのだ。その木とはケヤキ(欅)のことだった。関東地方ではいまちょうどケヤキが紅葉している。日が当たっている街路樹のケヤキ並木は見ごたえがある。
ここには書かれていないが、このケヤキも春には小花が咲き実をつける。しかし、ほとんど見かけるケヤキは大木になっているので、小花や実は目につかない。
自宅の庭の片隅にケヤキの苗が育っていたことがある。もちろん植えた覚えもないのに。きっと鳥によって種が運ばれてきたのだろう。大きくなり過ぎると面倒なので切ってしまったが。
ケヤキは実に有益な樹木だった。古くから家具や神社仏閣の建築に用いられてきている。堅くて丈夫なのが特徴のようだ。磨くと光沢がでて高級家具となる。
生きている間は春夏秋冬、ありふれた木ではあるが春の新緑は人の目を楽しませて、また日差しの強いときには日陰を作って癒してくれる。また材としても役に立ってくれるから価値があると言えるのだろう。

蛇足

上記のフレーズはあとから、偶然にも11月2日(母親の)幸田文さんの『木』を取り上げた時の部分ともやや似ていたことに気づいた次第。そして『木』を連載している時に、最後のとりはケヤキを取り上げるように青木さんは働きかけたと述懐している。しかし最後は「ポプラ」でした。

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木は自分で腐葉土作りまでしているのか。
「こぼれ種」青木玉著より。
この季節になると多くの落葉樹は葉を落としている。とくに大きな街路樹がある商店街はその掃除が大変なことだろう。そういえば、自宅のフェンスのその側の夏づたも紅葉して落ち始めていた。数日間は掃除をせねばな。
さて、葉が落ちるのは落葉樹ばかりではなく、芽吹きのころには針葉樹も常緑広葉樹も葉っぱの世代交代をしている。また、サルスベリプラタナスも晩秋になると樹皮がはがれ落ちてくる。
また、樹木の中にはイイギリのように自ら伸びすぎた枝を落とすものもあるようです。そして樹木は葉や枝を落としながら腐葉土をその下に作っていたのです。つまり自分でリサイクルを繰り返しているということになりますね。
森や雑木林のなかでは自然のほどよいサイクルで植物が育っていたんですね。確かに、今年の夏ごろ、自宅の庭でも自然にできた腐葉土のあった部分ではミョウガが大きく育っているのを見つけて驚きました。
(話がややそれましたが、その時はちょっと得した気分でしたね)