集中力が視野を狭くする。

「ファイブエル」2007.9月号より。
木村政雄氏の発言!”というコーナーで目にしたフレーズ。競走馬はしばしば遮眼帯とよばれる目隠しをしたまま走らされる。それはわざわざ視野を狭くして、前を見て走ることだけに集中させるためのようだ。もともと馬の目は顔の横についていて視野が350度もあるようだ。それに比べて人間の視野は両目で約200度らしい。
話はやや変わるが、たとえば親は子供を小さい頃から少しでもいい学校、いい勤務先や高収入が見込める職業に就かせようとしたりもする。要するに競争は幼いころから始まっている。競争のためには集中力を発揮せねばならない。ある意味外界の雑音を遮ることも必要になってくる。
しかし、いくら途中経過がよくてもその後の人生が幸せかどうかは約束されているわけではない。学生時代および社会人になってからもエリートと呼ばれる人たちが事件の主役になってしまうこともある。また優秀だからこそ落とし穴に落ちたりもする。
人間はしばしば周囲からの期待や命令で知らず知らずのうちに、競走馬の遮眼帯のようなものを身につけてしまうようだ。一般にはよく言われるのは世間知らずだったりもする。「こうしなさい」「ねばならない」「〜べき」などが視野を狭くすることもあるだろう。
まあ、ものごとは思うようにいかないほうが多そうだな。自己満足と妥協の日々・・・かも。

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(子供には)意味がわからなくても響きのきれいな言葉・・・
「アスパラネクストエイジ」2007.秋号より。
阿木耀子さん(作詞家)は唱歌や賛美歌には、子供には意味がわからなくても響きのきれいな言葉がいっぱい詰まっているという。大人でも歌はただ聴いているだけでは意味がつかめないものも多い。ただリズムお気に入りなら言葉の深い意味まで考えたりしないかもしれない。
しかし、歌詞を見ずに覚えていると長い間勘違いしている言葉もある。阿木さんは「村の鍛冶屋」のフレーズ〜しばしも休まず」の部分を加治屋さんだから「火ばし」だろうとずっと思っていたという。しかも現代の若者に「火ばし」といってもピンとこないかもしれない。
昔の童謡のなかには現代人にとって死語や意味不明なものが多いかもしれない。たとえば「夕焼けこやけ」のなかの「山のお寺の鐘がなる〜」の部分もなぜ鐘がなるのかわからない人も多いだろう。(もちろん時刻を知らせるためだが)
ついでに、ちょっと面白いことだが、最近では都内や私の住む地元では夕方の5時になるとこの「夕焼けこやけ」のメロディー自体が流れ、夕方の5時を知らせてくれる。話がそれてしまった。
そういえば、野口雨情の作詞した童謡や唱歌などは、中年以上の人にとっては郷愁を感じるのではないだろうか。子供のころ聴いた響きのいい言葉はいつまでも耳に残るもの。
蛇足
野口雨情(1882-1945)
詩人、童謡、民謡作詞家。代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など。他に『波浮の港』『船頭小唄』など。