短く書け、すれば人は好んで読む。

「前略ハガキでお客様をつかむ法」金田晃著より。
この本の結びの部分に、金田氏が大切にしているハガキの極意が紹介されていた。それは昭和初めの文芸評論家だった千葉亀雄氏が残した言葉だった。
そのはじめの部分が上記フレーズ。そしてその後には次のように続いていた。
「ハッキリ書け、すれば人は理解する。絵で書いたように書け、すれば人は記憶する。」
長い文章に出くわすと、なぜか読む前にちょっと躊躇してしまう。しかし、短いとわかっていればすんなりと読んでしまったりするものだ。それは宣伝コピー文が短いことからもわかる。
まあ、ハガキに限らず相手に短時間で理解を求めるときは、“要するに何が言いたいのか”がわかることが先決だろう。誰もがそう簡単に絵を描くように文章を書けるとは思わないが、それを意識することは無駄ではないだろう・・・な。
ということで、今日は短く書いたつもりだが・・・(結局なにを言いたいのか分からないかも)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

罫線というミソ。

この数日間にわたって、ハガキについて触れてきたが、ふだんの生活の中でハガキを書く必要性も少ないかもしれない。ただし、営業、販売、サービス業にたずさわっている場合は、実際にワザワザ書くのが億劫なだけに逆に印象付けには有効な手段ともなるだろう。
一般家庭では、まずはハガキの予備がないことのほうが多いのではないだろうか。便箋、封筒、切手などを事前に準備することに比べたらハガキを用意しておくことはかなり簡単そうだが。実際はせいぜい年賀状程度しか書く機会はないかな。
またハガキを書く際にやっかいなのは、書く際に文字をまっすぐに書けるかどうかがちょっと不安になることだ。つまり、一般にはハガキには便箋のように罫線が引かれていないからだ。しかし、最近ではあらかじめ薄く罫線が印刷されたものも売られている。
そして、電気店などで買ったハガキサイズの印刷用紙には自分でパソコンで罫線だけ印刷したりして使用している。私はそれだけでかなり気楽にハガキが書けるようになったものだ。
この罫線があるかないかが「気楽に書く」場合のちょっとしたミソでもあるかな、と思っているが。(こういうのも手前ミソって言うんだろうか・・・)


/・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コレクションの基準は、あくまでも自分自身にあります。
「相鉄瓦版」2007.9月号より。
この号の特集は「コレクションの密かな愉しみ」だった。何かを集めることを趣味としている人は多いだろう。簡単にはじめられるが、また簡単にやめてしまうものもこのコレクションという趣味ではないだろうか。
はじめは切手、野球選手が印刷されたカード、漫画、アニメのキャラクターシール、グリコなどのおまけのフィギアなどがお手軽だろう。私も子供のころからそんなものを集めてはほんの数年で飽きてしまい放り出してしまったものだ。
集め始めるとその先が際限ないことがわかり、途方にくれてしまったりする。いずれにしてもお金がかかるものには限度があるものだ。今ではほとんど見かけなくなったが、小さいマッチ箱を収集したものを約40年前の子供のころ兄からもらったことがある。そのころはまだ日常ではライターよりマッチのほうが多かったのだ。
マッチ箱にはその店独自のデザインがあって見ているだけだけでも楽しかったものだ。しかし、実はコレクションは自分が集めるからこそ楽しいのだ。苦労して集めたモノにはそれなりに思い入れがあるもの。人からもらったりしたものは、愛着がないだけに冷めやすいものだ。
そうそう、タイトルにあげたフレーズはタレントの千秋さんが言っていたことだった。彼女の趣味はモノを集めることのようだ。彼女も飽きっぽいようでコレクションするモノはいろいろ変遷している。熱が冷めるまで2ヶ月だったりするようだ。しかし、ただ一貫して続けているのが「モノを集める」ということだという。
なんとなく自分もそんなところがあるかも、と頷いてしまった。たとえば、今書いているこの日記も“ちょっと気になるフレーズ”のコレクションかとも思ったり・・・(これはほとんどお金がかからない!)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
個人コレクションには限界がある。
昨日コレクションについて触れたら、思い出したのが森永卓郎さんだった。彼のコレクションもかなりすさまじいものがある。氏のホームページに“森永卓郎コレクション”というページがある。
しばしばテレビでも話題にしているのがミニカーだった。このおもちゃの車を集め始めたのは北原照久氏と同じくらいだったらしい。しかし、北原氏は徹底して買い集めたたため、それだけで「おもちゃ博物館」をいくつも作ってしまったほどだ。
私もかつて訪れたことがあるが、それは貴重な資料館でもあった。そして、そこには年間かなりの入場者があるため、ビジネスとしても成立してしまっている。やはり財力と情熱があるとすごいことになってしまう。もう個人でのお楽しみを超えている。
きっと森永氏もいずれコレクションしたものを資料館として保存する夢を持っているに違いない。それから、「相鉄瓦版」にはミュージシャンのタケカワユキヒデのコレクションも掲載されていた。彼は少年マンガ雑誌のコレクターだった。
これはかなり重いしかさばるから保管が大変そうだ。毎週確実に増えていくものを30年間以上集め続けるのも個人では限界があるだろう。しかし、資料としてはいいかもしれない。ただ単にコレクションといってもいろいろと苦労はつきまとうものだな・・・
蛇足
森永氏のすさまじいばかりのコレクションはこちらのホームページどうぞ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
モノを集めるのは人間の本能のひとつ・・・
「相鉄瓦版」2007.9月号より。
これは自身も三万冊の本のコレクターだという文芸評論家の長山靖生氏が言っていること。人にとっては何の価値のないものでも、自分には大切なものもある。
たとえば、お菓子の袋や箱はただのゴミにしかならないが、それを意識して100個ぐらい集め始めたとしたら、次にはもっといろいろな種類を集めたくなるのではないだろうか。
一般にコレクターというと美術品や高額な宝飾品や骨董品などが思い浮かぶが、それは一部の財力のある人に任せておけばいいだろう。庶民はむしろお金を使わなくても集められるものにこそ価値を見出したほうが長続きもするだろうし、楽しいのではないだろうか。
つまり、わざわざ集めるためにたくさんのお金を出さなくても長年かかって自然と収集できたものほど自分にとっては価値があるかもしれない。それは逆に言えば、お金をいくら積んでも買えないものだからだ。
たとえ一枚数十円の切手でも、漠然と集めるよりもあるテーマを持って集めたほうが面白そうだ。たとえば、絵柄のデザインが植物、昆虫、世界の建造物、歴史上の人物、楽器・・・など。
一般庶民はむしろ安くて身近に手に入るものを目指して、コレクターになるほうが気楽に長く楽しめそうだな。まずは何をコレクションするかを決めねば・・・