日本人ほど絵のタイトルを知りたがる民族はいない・・・

R25」2007.8.2号より。
インタビュー記事のなかで、石坂浩ニがフランスを旅行したときに、観光案内をやっているおばあさんが言っていたことを思い出していた。それが上記のフレーズだった。彼女は日本語でどういう意味かを知るよりも絵を見てりゃいいのだと言ったそうだ。
絵画には作品名よりもまずその作品自体がどれだけ楽しめるか、感動を得られるかが優先されるのだろう。そう言われれば、ほとんどの芸術作品、歌でも舞台でも映画でも題名より中身のほうが重要だ。
絵画ではしばしば題名が無いものさえある。展覧会にいくとしばしば、「無題」とかただ「作品1」、「作品A」などというのも見かける。作者としては、ただ作品だけを評価してくれればそれでいいということなのだろう。
その傾向は具象絵画よりもむしろ抽象画に多いかもしれない。抽象画で思い出したが、もう30年ほど前に、仕事の先輩と画廊で抽象画を眺めていた時・・・・私が「この作品はよく分からない」というと、絵画が好きな彼は「全体の柄を見ていればいいんだよ」と言っていたことが印象的だった。
そして、ちょうどネクタイの柄を選ぶと思えばいいとも言っていた。なるほど、ネクタイの柄には意味はない。でも、好き嫌いで選んでいる。抽象画も同じで自分が心地よく感じればそれでいいのだろう。理屈より先にどう感じるかだけでよかったのだ。
まあそう考えれば、絵のタイトルなど詳しく知る必要もなくなるか・・・な。


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「自分は作詞ができる」と思っている人がゴマンといる・・・
「作詞入門」阿久悠著より。
30年以上前の阿久悠さんの本が書棚にあった。いま書いているパソコンの机から手を伸ばせばすぐに届くとことろにあった。それまでまったく気にしなかった。「今日は再び来たらず」(城山三郎)、「三島由紀夫レター教室」の隣にあった。(そんなことはどうでもいいが)
この本の初版は昭和47年5月30日となっていた。いったいいつ頃買ったのかも覚えていない。その本の序章は次のように始まっている。「だいたい“入門書”と呼ばれるものは、「キミにも○○ができる」というのがキャッチフレーズになっている。・・・・」
しかし、阿久さん自身はそういうのがいちばん嫌いだという。要するに誰にでも出来る程度のものでは、決してプロとしては通用しないからだ。つまり、この本は作詞家の入門書ではなく、むしろ人生論的なものといっていい。
本の裏表紙では作家の井上ひさし氏がこの本に対して、“クリエイターの壮烈な生きざま”と題して「一篇の詞に生命を与えるために、どれほど苦しい時間を過ごさなければならないか、それがじつによくわかる」と述べている。
作詞らしいものなら誰でも書けることだろう。しかし、ヒットする作詞はごく一部の才能あるクリエイターにしか書けないということだろう・・・な。