野球留学や寮の設備といったインフラが整備されている。

素晴らしき日本野球」長谷川滋利著より。
昨日のネットや今朝の新聞のスポーツ面では、桑田真澄投手とイチロー選手のメジャー初対決について触れられていた。すでにメジャーを代表する選手として活躍しているイチローと39歳のオールドルーキーの桑田投手との対戦は実に興味深い。
日米を通じても公式戦初顔合わせでもあった。今回は緻密な投球術とコントロールに勝る桑田投手が三振を奪うことができた。しかし、これは“たまたまのこと”と控えめの発言をしていた。
そんな彼らも高校時代は厳しい猛練習に耐えて、日本を代表するプレーヤーだったからこそメジャーという舞台に立っていられるのだろう。長谷川も言っているが、日本の高校野球のレベルはアメリカよりはるかに上を行っているようだ。それは素晴らしい指導者と長時間の猛練習の賜物だろう。
しかも、それを可能にしているのは、上記フレーズにもあげた「野球留学や寮の設備といったインフラが整備されている」からだと長谷川は指摘している。ここでは、触れてはいなかったが、さらには今春マスコミで大きく取り上げられたように、「特待生制度」(授業料の免除など)もインフラとして大きくかかわっている。
高校によっては、レギュラーのほとんどが特待生のチームもあった。甲子園を目指す高校野球は進化しすぎている、と長谷川は指摘している。場合によってはプロに入る前に身体を痛めている場合さえある。
メジャーリーガーの中には40代半ばでも活躍している選手もいる。そんなことを考えると、今後は長くプロで活躍できるためのインフラも整備してもらいたいものだが。若い力強さもいいが、メジャーで通用する桑田投手のようなベテランの技も捨てがたいと思った次第。

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休日をただゆるみっぱなしですごすのはまずい。
「知の休日」五木寛之著より。
この本のサブタイトルは“退屈な時間をどう遊ぶか”となっていた。五木氏は自らの経験を通してさまざまなものに関心を持ち、それを遊びとしてきたようだ。車、絵画、健康、靴、本、・・・あらゆるものにこだわった結果の遊びでもあった。
さて、タイトルにあげたフレーズだが、これは五木氏個人の経験から出たことばだった。氏は常に締め切りに追われストレスのたまる仕事をしている。しかし、たまの休日には過度の緊張から解放され自由な一日を過ごすこともある。
ところがそんな時に限って、妙に頭が重くなってせっかくの休日を台なしにしてしまったこともしばしばだったという。この休日性頭痛の原因は、突然の心的弛緩にあったと判断している。過度の緊張の持続から、一挙になにもしなくてよい状況に投げ出されるからのようだ。その劇的な落差が心身の安定を失わせていたという。
結局その対処法としては新鮮な(楽しみのある)緊張感を用意することも必要だったと述べている。休日には自分に何らかの課題やテーマを与えて過ごすことがよさそうだ。むしろ軽いストレスはあったほうが、心身のためにはよさそうだ。好奇心や知的な楽しみもそのなかに入っているだろう。人に読まれるこんな日記も悪くないかな・・・


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ブック・オフとは、<本離れ>という意味にもとれないではない。
「知の休日」五木寛之著より。
さすが、いつ五木さんだ。面白いところに気づいている。今までなんの疑問も持たずに、古本屋の店名だと見過ごしてきた。意味を考えてみれば、OFFは確かに、離れるというような感覚がある。
ある意味それは正しい使い方でもありそうだ。なぜなら、店頭の看板やチラシにはいつも「お売りください」と表示されているからだ。つまり、家にある本を手離してくださいとお願いしていた。
古本を安売りしているから○%オフということばかり頭に浮かんでいたが、そればかりではなさそうだな。たまに時間があれば、覗いてみることはあるる。100円コーナーでお気に入りの本が見つかれば得した気分にもなれる。
以前不要な本を整理して何度か売りに行ったことはあるが、実に安く引き取られ、一部は値段がつかずガッカリしたこともあるが。本はいつしかどんどんと増えてしまうが、まとめて手離すとなるとその選定にかなりの時間を費やしてしまう。つまりふんぎりがつかないことがある。
五木氏自身も、学生時代高田馬場の古本屋で買った本さえ捨てられずにいるという。最もお気に入りの本を数冊だけ残して、あとは処分するとなると実に難しい。数冊の本を買うよりずっと困難なことだろう。(あと私の場合、一度に大量の本を動かすのは腰にも悪そうだな・・・)


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名画と言っても、それは美術史家ののたまうことで、本当に名画かどうか・・・
「知の休日」五木寛之著より。
これは“アートと遊ぶ”という章にあったフレーズだが、もともとは伊集院静さんのエッセイの一部だった。誰か専門家にこれは名画だと言われれば、その先入観で作品を見てしまうもの。しかし、美術館で自分のお気に入りの一点を探してみるというものけっこう知的な楽しみと言えそうだ。
ただし美術館も画廊もちょっと有名な展覧会、とくに印象派の作品だったりすると長蛇の列が出来やすい。地方都市でも一週間で十数万人の集客してしまったりする。もしそうなると、絵画より人の頭を見る時間のほうが多くなってしまいそうだ。やはり絵画はゆったりと気持ちのゆとりをもって眺めたい。気に入れば同じ作品を何度でも見てみたい。
五木氏はかつて、ルーブルも大きいが、エルミタージュ美術館を丹念に見てまわると三ヶ月かかると言われてげんなりしたことがあったという。それにしても日本とはスケールが違いすぎる。
しかも、名画をちゃんと見ると疲れるらしい。それは作品自体がものすごいエネルギーを持っているからだという。ちょっと面白い表現だ。画廊には時どき行って目的もなく眺めることはあるが、最近は混雑がいやで美術館にまで足を運ばなくなってしまった。
今度、あまり混雑しない美術館で自分のお気に入りの「この一点」を探してみるのも悪くなさそうだな。


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酷使するうちに、靴は足になじんでくるのである。
「知の休日」五木寛之著より。
この本の第六章は“靴と遊ぶ”だった。本当におしゃれな人は服装ばかりではなく、足元の靴にまでこだわっている。もともとファッションにはほとんど関心がない私は、履きやすければそれでいいいと思っている程度だ。
買った時点では、ちょうどいいと思っても歩いているうちに、そうでもないことがある。だから靴は難しい。ぴったりすぎても歩きづらいこともある。初めから満足な靴に出会ったことはない。それは自分の足のせいかもしれないが。
今まで、履いていて疲れを感じない靴に何度であったことだろう。そんな靴は歩いていることが楽しくなるもの。いくら格好がよくても自分が快適でなければ価値は無い。いずれにしても、どんなにお気に入りの靴も消耗品には違いない。
日中、靴を履きつづけていると、足がかなり熱をもっていることに気づく。とくに夏はそうだ。だから、もう20年以上前から初夏から秋にかけては、たいていメッシュのものにしている。困るのは梅雨のどしゃ降りのときだが。ほとんど毎日のように履くので、翌年にはまた買い換えることが多い。
そんな靴もはじめからぴったりということはなく、我慢して履いているうちに少しずつなじんでくるのを待つしかない。それを履いたら、自然と気持ちが弾んで歩きたくなるような靴に出会いたいものだが・・・