たまにはボツネタにツッコミを入れてみるか。

「通勤電車で寝てはいけない」久恒啓一著より。
この場合、ボツネタとは、オヤッとは思ったが、イマイチ意味が分からなかったもの。
1.「ライフ」には「生命」「人生」「生活」という3つの意味がある。
→べつにそんなことは前から知ってはいたが、改めて3つを並べてみて考えたことはなかった。やはりまず生活が成り立たないと人生も考えられませんね。少子高齢化を考えると、生きていくだけでも厳しい時代ですね。
2.手帳とは「手に入る小さな帳面」ではない。
→では、一体なにかといえば、人生を有意義に送るための大切な道具である、という。今までただスケジュールをメモするだけのノートだとばかり思っていた。実際仕事でケータイを2つも持っていると、手帳を持つのが面倒になっている。もっぱら数枚の情報カードばかり使っている次第。


3.仕事でいい結果を出そうと思えば、より高性能の武器を揃えるのは当然である。
→たとえば、これはパソコンやケータイだとすれば、いくら素晴らしい機能があったとしても、それを使いこなせなければ意味はないだろう。また、その武器は一年以内にどんどんバージンアップして古くなってしまうし・・・。高性能な武器ほど金額も張るだろうな。
4.情報の「動体視力」を鍛える。
→野球の世界では、一流打者は動体視力が非常に優れているのは確かだろう。テレビ、ネット、雑誌などの静の情報だけでは不十分だという。たしかにマスコミの情報が正しいとは限らない。でも、実際どうしても自分が生の情報に接しなければならないほどの価値のある情報ってどれほどあるのだろうか。
以上、どうでもいいことだが、ちょっと気になる部分について触れてみた次第。

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石原さんの勝因は、いいにせよ悪いにせよ、その表現力にある。
産経新聞」2007.4.16付けより。
これは「透明な歳月の光」というコラムのなかで、曽野綾子氏が述べていた部分にあったフレーズ。なるほど、作家らしい指摘であると思った次第。曽野さんと石原氏は(同じ作家として)旧知で遠い仲であるという。
先の都知事選では圧倒的な知名度の石原氏がまたもや二位以下を大差で破って三選を果たしていた。石原氏は常に批判の材料を提供していたにもかかわらず、結果的に互角で戦える候補者は一人もいなかったことになる。
曽野さんは石原氏に対して「自分をさらせる人は大悪をなしえない」とも述べている。やはり大都市東京を引っ張っていくリーダーには表現力(アピール力)が大事だったということだろうか。
抜群の知名度+実績+表現力(アピール力)、こんなことを考えたら、はじめから勝ち目のある候補者はいなかったかな。石原氏がどんなに嫌いな人がいたとしても、それ以上に支持する人が多かったということか。(でも慎ちゃん今期限りだからね)

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原っぱというのは、一つの条件があるように思う。
産経新聞」2007.4.16付けより。
「蛙の遠めがね」(石井英夫氏)というコラムの中にあったフレーズ。つまりその条件とは、何もない空き地であるということだった。原っぱというひと言で子供のこえお遊んだいくつかの場所を思い出してしまう。今ではそんな土地を遊ばせておくようなことはめったにないだろう。
むしろ広場というより、ブランコ、滑り台、鉄棒、花壇、ベンチなどでキッチリと整備された公園に似たようなものはあるかもしれない。しかし、そこでは自由な遊びはできない。
私が子供の頃はまだ雑草が生えただけの空き地はあり、自由に遊べたものだった。何もない空間だからこそ遊びも創造できたともいえる。また、べつに広場はなくても敷地が広い友達の家の庭でもさまざまな遊びができた。まとまったお金を使った覚えもない。
今ではお金さえ出せば、さまざまな電子ゲームの玩具やソフトがいくらでも手に入る時代になった。お手軽に時間つぶしはできる。友達がいなくても何時間でも遊べる。しかし、新緑の季節の晴れた日に部屋に閉じこもってゲームばかりするのは、ちょっともったいない気もするが。
話しがそれてしまった。筆者は原っぱには無用の用があるという。ただの広場でなにもないところこそが有益なのだということだった。今ではそんな空間は贅沢なんだろうな。