シズル感のある〜〜

「月刊現代」2007.4月号より。
この言葉を「言葉の探検」というコラムで目にした時、約20年以上前に、耳にしたことを思いだした。それはあるセミナーで講師が口にしていたからだった。その時は耳で聞いただけだったので、日本語かと思っていた。
確かその時は焼肉か何かの話をしていた。しかし、まさかこれが英語の単語であるとは気がつかなかった。ひらがなで「しずる」と書いても何の違和感もなかったからだ。シズル・・・それはsizzleというスペルだった。
さっそく辞書を引いてみた。シズル【sizzle】 「(1)(ステーキなどの肉や揚げたての食べ物が)ジュージューと音をたてていること。(2)転じて,食欲や購買意欲を刺激するものをさしていう。」
これでかなり判明したが、このミニ雑学コーナーによれば、次のようにもあった。「広告やデザインの世界で、人間の五感を刺激する感覚という意味で使われだし・・・」そこで、「シズル感のある写真」とか「シズル感のあるパッケージにする」という表現が使われているようだ。
そして人間の感情や臨場感を表すときにも使うようになったらしい。ならば、例えば「シズル感のある日記・ブログ」なんていう使い方も間違いではなさそうだが。意訳すれば、ワクワクする気持ちにさせる、次を期待させる、といったようなものか・・・な。

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「いつも肉を食べているのに、肉になるまでのことは考えたことがなかった」
「月刊現代」2007.4月号より。
「世界屠畜紀行」内沢 旬子 (著) という本の紹介部分にあったフレーズ。ふだん私たちがスーパーや肉やの店先で目にする肉は、すでに製品としてきれいに盛られ、パックされたものばかりだ。それらは、数時間前、数日前までは生きた動物だったとう意識がない。
食肉や皮革等を得るために、家畜等の動物を殺すことは屠畜、屠殺といわれるが、一般的にはその現場は目にしたくないものだろう。魚ぐらいなら一般の家庭でさばいて料理するだろうが、動物はそう簡単には殺せないもの。商売にするなら当然それなりの許可が必要に違いない。
かつて、仕事の同僚で鶏の肉が食べられない男がいた。とくにから揚げなどはダメだった。その理由をきくと、彼の実家の父親が自宅で家畜として飼っていたニワトリを刃物でさばいた情景が目に焼きついて残っているからだった。
肉屋に並んでいるどんな上等な肉であろうと、それまで生きていた家畜を殺し、皮を剥ぎ、解体し骨を分け、いい部分だけを切り分ける。つまりそれを専門の職業としている人がいることも忘れている。
しかし、家庭では生きたままの魚さえ料理することは稀かもしれない。また肉を食べるたびにその殺される現場の姿を想像したら、せっかく美味しい料理の味が不味くなってしまうかも。それはともかくとして、でも私たちが生きるために犠牲になってくれる動物にも感謝せねばな。(焼肉食べたい。でもコレステロールが気にかかる・・・)

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初心を忘れないための、自分への記念品。
R25」2007.4.12号より。
石田衣良氏のエッセイのなかにあったフレーズ。新入社員ももうすぐ初任給がでるころになった。何に使うかという楽しみがあるだろう。彼はそれで記念になるようなものを購入するのもいいとアドバイスする。
4月の半ばごろ、新宿西口を歩いていると、まだぎこちないスーツ姿の若者の集団姿をよく目にする。一見してどこかの新入社員だとわかる。大型バスから降りてくる若者たちは大きなバッグを手に提げている。研修から帰ってきたばかりで、ほっとした様子もうかがえる。
慣れない社会人生活は疲れるものだろう。当然、研修も給料のうちに入ってる。その初月給で自分は何に使ったかは思い出せない。
石田氏は20年前に御茶ノ水の文房具屋でパーカーの万年筆を買ったことを覚えている。万年筆はなくなっても、それで書いた日記のノートはクローゼットの奥に積んであるという。
人によっては、世話になった親にプレゼントする人もいるだろう。それはすごくいいことだが、男の私にはちょっと恥ずかしくてそれはできなかったな。
社会人になってから20代の記憶のために残した随筆のようなものはあった。その書きなぐりだったものを30歳頃にワープロで清書してファイルに綴じたりもしていた。給料とは関係ないが、それはちょっとした自分への記念品かもかもしれないな。(タイトルは「記憶の中の自画像」としていたっけ。)