“芸術する”スポーツなど。

ちょっと気になる言葉に、ふだん時々耳にする“芸術的〜”というのがある。

そのほとんどは実際の芸術とは全く関係ないもので、だからこそ芸術的という表現が用いられるのだろう。たとえば、サッカーの場合、蹴られたボールが絶妙なカーブを描いてゴールネットを揺らしたときなど芸術的なシュートだなどと使われる。(あるいは心のなかでそう思ったりする。)

野球では捕球した状態が一見難しそうに見えたにもかかわらず、キャッチし打者ランナーをアウトにした場合に芸術的なプレーだと表現してもおかしくはない。別名ファインプレーというのがそれに含まれるだろう。

しかし、もしそれがセーフになるばかりか、エラーを誘うことになり相手チームの得点につながったりすれば、ただの派手なだけのプレーにしか見られない。このように芸術的と無意味は紙一重の場合もある。

同じスポーツでも芸術的なものが採点に含まれているものもある。シンクロナイズドスイミング、飛び込み、フィギアスケート、スキーのジャンプ、体操競技・・・。

それらは素人目には感覚的なものになっている。スポーツと芸術の融合の場合は見る側にも一瞬の判断が要求されるのだろう。その見る目をもっているのがプロの審査員なのだ。

ちょとスポーツから離れても芸術的なものはどこにでもある。文藝作品は文章による芸術のことだ。それらは一部の職業作家によってつくられている。また、芸術的な文字だね、と言われた場合、判読不可能な悪筆であることも・・・


ちょっと気になる言葉に、ふだん時々耳にする“芸術的〜”というのがある。

そのほとんどは実際の芸術とは全く関係ないもので、だからこそ芸術的という表現が用いられるのだろう。たとえば、サッカーの場合、蹴られたボールが絶妙なカーブを描いてゴールネットを揺らしたときなど芸術的なシュートだなどと使われる。(あるいは心のなかでそう思ったりする。)

野球では捕球した状態が一見難しそうに見えたにもかかわらず、キャッチし打者ランナーをアウトにした場合に芸術的なプレーだと表現してもおかしくはない。別名ファインプレーというのがそれに含まれるだろう。

しかし、もしそれがセーフになるばかりか、エラーを誘うことになり相手チームの得点につながったりすれば、ただの派手なだけのプレーにしか見られない。このように芸術的と無意味は紙一重の場合もある。

同じスポーツでも芸術的なものが採点に含まれているものもある。シンクロナイズドスイミング、飛び込み、フィギアスケート、スキーのジャンプ、体操競技・・・。

それらは素人目には感覚的なものになっている。スポーツと芸術の融合の場合は見る側にも一瞬の判断が要求されるのだろう。その見る目をもっているのがプロの審査員なのだ。

ちょとスポーツから離れても芸術的なものはどこにでもある。文藝作品は文章による芸術のことだ。それらは一部の職業作家によってつくられている。また、芸術的な文字だね、と言われた場合、判読不可能な悪筆であることも・・・

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充実の前では、あらゆることが無化される。

「わからなくなってきました」宮沢章夫著より。

やや抽象的なフレーズだが、具体的にはゴキブリ退治について述べられていた部分にあったもの。

ゴキブリを退治するためのある製品は、それをゴキブリが食べると、脱水状態になり水分を求めて家の外に出てそこで死ぬという。(でも家の外に出られなかったら見えないところで死んでいるのだろうか。それが台所のどこかじゃ気持ち悪い。)

これは“アリの巣ころり”にちょっと似ていそうだ。アリがその毒入りの餌を巣に持ち帰ると、それを食べた仲間も一緒に一網打尽にできるというものだ。

ゴキブリの場合その後の姿が見えないとちょっと安心できない。あの粘着性のゴキブリ取りの場合なら、かった場合には目に見えるから捕れたことが確認できる。(まだ生きていてヒゲを動かしているやつはやや気持ち悪いが。)しかし、いるはずなのにかからないときはもっとシャクでもある。

とにかく敵は逃げ足が早い。せいぜい殺虫剤でふらふらになったやつをスリッパで叩けたとしても、あと始末を考えるとうんざりする。ゴキブリの死骸が見えなければいいのだろうか。いや、やはり捕れたというささやかな充実感も必要にも思えてくるが・・・

(と、ここまで書いてきたら国際的テロ組織の中心人物、アルカイダのヴィンラディンを思い出してしまった。死亡説もあるようだが、その姿を確認できないのもやや不気味でもあるな。)


常識的な人もまた、「記念じゃないか」と言われたらどうにも弱い。
「わからなくなりました」宮沢章夫著より。

旅行をするとふだんなら買わないであろうものまで買い込んでしまうこともある。それは、せっかく来た記念に、という思いがあるからだろう。
小中高時代には、学校の遠足や(修学)旅行があって、必ず強制的に記念撮影が行われた。それとは、別に自分たちが持参したカメラでせかっくだから記念にといって、代表的な建築物や景色を背景にバチバチを撮ったものだった。
中には悪い生徒は記念だからといって、そこにあったものを持ち帰ったりする。パンフレット程度ならいいかもしれないが。しかし、それらを持ち帰ったところでしばらくするとどうでもよくなっている場合が多い。
日常では郵便局に行くと記念切手が売られているが、それらも自分にとっては何の記念でもない。ただ絵柄やデザインがやや珍しかったりするだけだ。結婚記念にかったエンゲージリングなどもふだんそうそう使ったりしない。またどこに仕舞ったか忘れたり、なくしたりしてしまう。
卒業記念に旅行をする学生は多い。これも記念旅行だ。“記念”とはしばしば出かけたり、おねだりするための口実だったりする。ひと頃ブームになったように、サラダが美味しいだけでも、サラダ記念日になったり。
最近ではブログの1周年記念、とか2周年記念というのを見かけるようになった。その時には何か特別なことでもするのだろうか。3周年記念には新しいパソコンにでも買い換える?


修学旅行生の「ピース率」は異常に高い。
「わからなくなりました」宮沢章夫著より。

いまさらとくに説明の必要もないが、これはもちろんカメラに向かうと誰でもがほぼ条件反射的にVサインをつくってしまうあのポーズのことだ。何がいったいVなのかまたじゃんけんのチョキなのかはわからない。どこのだれが始めたポーズかもわからない。
親しい仲間であるほど、若者に限らずいい歳をしたオヤジやオバさんたちも、ニコッと笑ってピース!をやってしまう。ふだん真面目な人でもカメラを向けてピース!というと手が動いてしまう。
これは、こちらに注目してほしい、とカメラに向かって訴えているようでもある。また、単に景色の中や記念碑の前に突っ立っているだけでは手持ち無沙汰なのかもしれない。そんなときにはピースはタダでお手軽だからいいのかもしれない。
ピースはもちろん平和という意味があるが、そんなポーズがとれること自体が平和の象徴にさえ思えてくる。以前、私がピースをやったのはいつ頃だろうか・・・・