「舞台は現金収入と同じ。こちらが何か言うと笑いで返ってくる。」

産経新聞」2006.11.26付けより。
コメディアンのすわ親治(54)の言葉だった。彼は舞台にこだわりたいという。それは、スタジオと違ってお客の反応がすぐに感じられるからだった。“何か言う”とは、演技の全てを指していると思われる。面白ければ笑ってくれる。コメディアンにとって笑いという反応はその場で現金を得ているのと同じだ、という発想もかなり斬新に思える。
これを読むまで、すわについては知らなかったが、ザ・ドリフターズの元付き人で、「全員集合」では舞台で演技をしていたのだ。彼にとって当時のいかりや長介はかなり恐い存在だったという。
彼がドリフを離れたかなりあとで、いかりやから一冊の本が届けられている。その中で“スピード感、リズム、音楽性、動きの勘、タイミングといった点で注目すべき若手がいた。すわしんじ、である。”と3ページにわたって触れられていたのだ。
やはり才能があったのだろう。仕事にしても、勉強にしても、すぐに結果や反応がわからないともどかしさを感じるもの。芸人なら舞台、落語家なら高座、スポーツマンならグラウンド・・・そこが舞台になっている。
関係ないが「人生はひとつの舞台だ。そこでは人は役者に過ぎない」と言ったのはシェークスピアだったかな・・・


被害者が自ら死を選ぶなんてバカなことがあるか。
産経新聞」2006.11.26付けより。
“断”というコーナーで評論家の呉智英氏が語っていたこと。連日のように、ほとんどの新聞ではイジメやそれが原因と思われる自殺について触れられている。テレビでの取材や報道も多い。
呉氏は上記のフレーズにつづいて、「死ぬべきは加害者の方だ。いじめられている諸君、自殺するぐらいなら、復讐せよ。・・・」とまで述べている。
先日やや反発を受けたようだが、石原慎太郎氏の行っていたことを思い出した。いじめについて「自分で戦ったらいい。ファイティングスピリットがなければ一生どこへ行ってもいじめられるんじゃないの」と語っている。
彼らしい歯切れのいい発言でもある。そういえば昔『スパルタ教育』という本も書いていたっけ。石原家はかなりのスパルタ教育で有名だった。いまでは「スパルタ」も死語になったかな。
小中学校でのイジメは常に自分より弱いものに向かって行われる。時には教師から生徒という立場を利用しているのもあるらしい。決して強いものに向かってはイジメは発生しない。
もし、イジメを行ったものがより強いものから必ず報復を受ける(時には倍返し)、というシステムが確立されたらどうだろう・・・。




「〜の幸せは、秘密の多さで決まる」
産経新聞」2006.11.26付けより。
先日から同じ新聞から気になったフレーズを取り上げているが、この新聞を買うのはせいぜい週に一度程度。上記のフレーズは連載中の小説『あじさい日記』(渡辺淳一)の中にあったもの。
いつも読んでいるわけではないが、たまたまこの部分だけが気になった次第。上記の“〜”の部分には“男”が入っている。さらにその後には「秘密のないような一生では、面白くないだろう」とつづいていた。
話は変わるが、よく何かの製品など見て「これどうやって作るの?」と聞くと、聞かれた方は、得意げに「それは一応企業秘密なもので」などと答えたりする。また、人に歳を聞くと「それはヒ・ミ・ツ」などというセリフなどもありそうだ。
さらに、「ここだけの話しだが」というよなものも、秘密のつもりであろう。しかし、意外にも早くそれは伝わったりするもの。身近なところでは、ヘソクリなども秘密のものだろう。その額が多いか少ないかは別として。
つまり人に言えないことは全てが秘密ということになってしまう。さて、取り上げたフレーズだが、文章の中では“男”が入っていたが、これが“女”であっても通用しそうでもあるが。あるいは“人”ではだめなのか。(意味深)
所詮、小説のなかのセリフだから真剣に考える必要もないが、やはりちょっと気になる・・・