「勉強」という名詞で捉えてきた営みを、「学ぶ」という動詞に変えな

「文藝春秋」2006.9月号より。
こう述べているのは、義家弘介さんだ。この人については今さら述べることもないだろう。元ヤンキーで教師になったということはあまりにも有名だ。現在は東北福祉大で講師をしている。また横浜市の教育委員も兼ねている。
これは、大学全入時代に、学生に求められること、と題して語られている部分にあったフレーズだった。この号には芥川賞受賞作も掲載されていたが、むしろ私にはその小説の内容よりもわずか2ページだけの義家さんのセンテンスが気になった次第。
ちょっとキザでカッコイイ表現にも思えたな。ヘリクツを言えば、「勉強」という名詞も英語ならstudyで勉強するという動詞にもなりえるがそんなことはここでは関係ない。大学は教室という枠から飛び出して、より大きな学びをする場所というのが彼の主張のようだ。
勉強嫌いの私などは、大学はある意味レジャーセンターに似ているとさえ思っていた。そこでは、勉強もできるが、遊びもできる、スポーツも、読書も、友達とのコミュニケーションも、好きな研究も・・・。しかし、結局中途半端に過ごしてしまった・・・かも。
義家さんが大学時代に学んだもっとも尊きものは「感謝」だという。それは大学4年の秋にオートバイの事故で意識不明になったときに、叱咤激励してくれた恩師への感謝が心に沁みているからのようだ。
人への恩返しのつもりで、教師の道を選んだのだろうか。過去のマイナスをプラスに転じている人生のようにも見受けられるが・・・