見栄というのは相当なムダを必要とする。

「優柔不断術」赤瀬川原平著より。
あらためてこのセンテンスをここに書き出して、読み返してみるとなんだかへんな日本語のような気もしてきた。とくに「相当なムダを必要とする」などという言い方は普通しない。結局「見栄を張ることはかなりムダなことが多い」という意味だろう。はじめから、どうでもいいような細かいことにこだわってしまった。
さて、世の中には見栄っ張りな人はいるもの。私など貧乏性な人間からみるともったいない、と思うようなことも平気な人たちだ。生まれつき裕福な人はもったいない、ということなど考えないのだろう。
たとえば、ブックオフなどでリサイクルされた本を安く買えるのに、あえて一般の書店で定価で買ってみたり、レストランで特別まずくはないと思うのにたっぷりと食べ残してしまったり、使えるものもどんどんと捨ててしまったり・・・
まあ、それらが全て見栄だとは限らないが。私などちょっとキレイな箱や輪ゴム、真っ白または無地のカードなどは即ゴミ箱に捨てる気にはならない。工夫すればいずれ何かに使えそうだと思ったりしている。
いい歳をしたオヤジがそんなみっともないことできるか、と言えるほどの見栄は持ち合わせていない。とはいっても、まったく見栄を張らないというのも味気ないかもしれない。まあ、ほどほどカッコ悪くない程度には見栄は張ったほうがいいのかも。
ここでは省エネではなく“省見栄”という言葉も目についた。面白い。それから、「生活のムダを省くには、行政改革よりも見栄改革だ」とも筆者は述べている。つまり、そこそこ貧乏性でもあるべきだということだろう・・・な。