子どもは純粋なのではなく、未熟なだけ。

「芸術力の磨きかた」林望著より。
この本のサブタイトルには“鑑賞、そして自己表現へ”とある。芸術は単に鑑賞するばかりではなく、もっとお気楽にその世界を楽しもう、というのがこの筆者の言いたいことのようだ。
しかしながら、全体的にはちょっと辛口の部分も目立つが、考えてみればそれはまた現実の姿かもしれないと思った次第。そう考えると、上記のフレーズもある意味納得できそうだ。
よく、子どもには枠をはめずに、子どもが持っている感性を伸び伸びと発揮させてやればいいなどとも言われる。しかし、必ずしもそれがいいともいえない。なんの基礎も知らなければ、ちゃんとした絵も描けないだろうし、まともに歌だって歌えるはずはない。
筆者は、子どもの感性のほうが大人より豊かだとか純粋だというのは錯覚だとも述べている。子どもたちがあるものに感動したりするのは、そのもの自体を知らないことからであることが多い。大人のように、既に知っているものなら別に感動もしないだろう。とはいえ、大人が先入観でものを見てしまうのもマイナスでもあるだろう。(ここが難しいところだ。)
筆者は自らの経験から面白いことを例に出していた。それは、メディアを通じて発表される子どもの作品はほんとうに「子どもの作品」かどうか疑わしいということだ。出版された子どもの詩集などはたいがい先生か編集者の手直ししたものだと思ったほうがいいらしい。
また子ども達が作曲したとされるコンサート番組のものでも同様なことがいえるらしい。子どもが作ったものはたいてい箸にも棒にもかからないという。確かに鑑賞に耐える作品などそう簡単にできるはずもないだろう。(プロだって苦労してるんだから)稀には、モーツアルトメンデルスゾーンのような早熟の天才もいるだろうが。
今は夏休みなので、子ども達の宿題なども時には親の宿題だったりするかも、なんて思ったりして。