説教好きはどこにでもいる。これも教育欲の一種だ。

「発想力」斉藤孝著より。
昼間何気なく本屋に入って、これといって目に止まったものがなかった。でも、せっかくだから何か一冊ぐらいは買って出ようとも思う。そんなとき、この筆者のものなら当たり外れはないだろう、というのがある。
自分にとって斉藤氏の著書はその候補の一人でもある。で、帰り際にこの本が目に入ったので迷わず購入した次第。と、前置きが長くなってしまった。
世の中には“教え魔”というのがいる。私の知り合いにもいる。もう、20年近く前のことだが、私がゴルフ練習場に行きはじめたと話したらその人から“教えてやるよ”などと言われたことがある。(単なるおせっかいやきだ)
教えてやるといっても、本人だってほんの数年前にはじめたばかりだった。なんでそんな奴から教えてもらう必要があるものかと、心の中で笑っていた。当然ながら、万が一習うとしてもオマエなんかの世話になどなるものかと思ったもの。
このように人に教えたいというのが習性の人がいるようだ。でも、そんな人は本物のプロにはそうそういないのではないか。本当に実力がある人や超一流のプロや職人さんはそうそう簡単には教えたりしないだろう。(シロートさんほど教えたがりかも)
サラリーマンなどは後輩に指導という名目で仕事を注意がらみで教えたりする。それは時間外だとしばしば説教に変わったりする。つまり、指導と説教の境目はちょっと曖昧な気もする。そして指導が説教ととられたらもうおしまいだろうな。
しかし、そんな説教も瀬戸内寂聴さんの話しなら喜んで聞きたい人も多い。法話とも言われる。プロの説教師には癒されたいと思っている人は多いもの・・・だな。