「どう見られているのか」ということと「どう見せたいのか」というこ

「相鉄瓦版」平成18年1.2月合併号より。
こう述べているのはファッションデザイナーのドン小西氏だった。彼にとって人のファッションをチェックするのは職業病のようなものとも言っている。どこにいようとも無意識のうちにチェックしているらしい。
べつに自分がファッションをとくに意識していなくても、その服装や持ち物で判断されているかもしれない。小西氏には「ファッションは人の内面を映す鏡だ」というのが持論らしい。
確かに身につけているもので判断されてしまうことは多い。それは服装に限らずバッグ、靴、アクセサリーなどにも及ぶものだ。その場の雰囲気にあっていなければセンスがイマイチだと思われてもしかたがない。趣味がいいとか悪いとかといわれるのもTPOに合っていないときだろう。
また氏は「本物の金持ちは、いかにも金持ち然とした格好はしないもんだな」と言っている。ファッションはその人のライフスタイルと密接に関係している。自分の価値観をちゃんと自覚していることが基本かもしれない。つまり背伸びしたり見栄を張ったりすることは分不相応なことで、好感がもてるとはいえない。
これを書きながら、タイトルの「どう見られているのか」「どう見せたいのか」ということは、文章で表現する場合にも似たようなことが言えそうだな、も思えてきた。つまり、書いたものが「どうように読まれているのか」「どのように読んでもらいたいのか」とも通じていそうだ。
書いた自分の気持ちや主張をどのように伝えたいか、また伝わるのか。それはある意味心のファッションのようなものだろうか・・・