忙しさにも二種類ある。

「相鉄瓦版」(平成17年8.9月合併号)より。
この号の特集は“子どもにかえる夏休み”だった。そのなかでタレントの清水国明氏が言っている言葉。
彼はアウトドアライフをライフワークとして楽しんでいることでも知られている。数年前には仲間たちと一緒に自然体験をサポートする施設として「河口湖自然樂校」を開校しているほど。自然を楽しむことが目的だから学校ではなく樂校(がっこう)とこだわっている。
そんな清水氏がかつてアラスカに行った際に、サラリーマンをリタイアしてログハウスに暮らしているアメリカ人に教えられたことがあるという。それが「忙しさにも二種類ある」ということだった。そのアメリカ人はのんびり暮らすどころか厳しい自然のなかでハードな日々を過ごしていたという。しかし、それは自分が生きていくための忙しさだから、本人にとっては苦になっていないという。
一方、サラリーマン時代の忙しさは会社の方針や上司の命令で動く会社や他人のための忙しさだったのだ。簡単に言ってしまえば、自分のための忙しさと他人のペースでの忙しさがあるといえる。
しかし、私としてはまだもやもやとしたものを感じていた。つまりもっと別の忙しさも自分たちは経験しているはずだと。例えば朝のバタバタとした忙しさや、仕事での周期的にやってくる繁忙期などだ。職場によっては月末、月初など。
それは自分や他人がらみの忙しさではあるが“どうせこんなものさ”と半ば諦めている惰性のような忙しさにも思えるのだ。気持ちがなぜか、せわしなくなるという感じだ。時間に追われていることには違いない。できるなら時間に追われるより、時間を追って生きていきたいもの。そして忙中閑あり、を感じられればちょっと幸せともいえそうだ。まあこの時代なんらかの仕事に就けているだけでもいいのかも。