「書く生活」と「書かない生活」

「書く生活」と「書かない生活」
「人を動かす文章術」齋藤孝著より。
この本のサブタイトルには、“誰も教えてくれない”とあった。つまり学校では習わないという意味でもあるだろう。そうならば、読めばお得かもしれない。
さて、この「書く生活」と「書かない生活」があるとすれば、暮らし方、ものの見方に差が出てくるというのだ。
ここでは、書くとはエッセイと考えていた。そこには、単なる作文ではなく、何かしら発見があることが必要だった。そして、それを意識することで、普段の過ごし方も変わるということだった。
これは確かにそうだと思える。筆者は、エッセイ力の向上と認識力・発見力の向上は連動していると表現していた。それは書く生活を始めると、実感できるという。
そう言えば、かつてエッセイに近いものを12年間ほど書いていたことがある。その時も何について書くかを意識すると、いろいろな書物、新聞、雑誌、フリーペーパーにも目を通したものだった。やはり書いているうちに新しい発見があると嬉しかったことを思い出せる。

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プレーが始まればひとつの戦場みたいなもの。
「人を動かす文章術」齋藤孝著より。
ここでは、おしゃべりと書くことの違いについて述べられていた。書くことは、言い訳がきかないということだろう。しゃべりならかなりいい加減なことでも、すぐに時は流れて曖昧なまま過ぎてしまう。また何の発見がなくてもその場は過ごせる。
しかし、書いたものはそれなりに責任も伴うと思われる。そこはスポーツでの試合と同様だという考え方だった。試合に出ているのに、お腹が痛くてプレーできないといっても許されない。外から見れば常にベストコンディションだと思われる。だれも同情などしてくれない。
つまり言い訳はできないということだ。
文章も同じだった。「書く」ということを通して、自分の実力をさらけ出さなければならないのだ。これは厳しいというふうにも考えらる。むしろ、自分の実力を世の中に問うという気が前こそが大事なことだった。
筆者が重視するのは、書き方よりも内容そのものだった。それはものごとをどう捉え、発見は何だったかであった。ここがポイントなのだ。
エッセイには新しい発見が必要だった。1、日常。2、観察。3、発見。4構成。という要素で成り立っていたのだ。

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文章でも、言い過ぎはむしろいいアクセントになる。
「人を動かす文章術」齋藤孝著より。
これはつまり当たり前のことでは、人の気持ちをつかめないということでもあった。そう言えば、本のタイトルや雑誌の見出しは、スポーツ新聞のタイトルはいかに読者に関心を持ってもらうかを考えて作られている。
売れるかどうかは、見出しが命だといってもいいのだろう。本の売れ行きもそれで大きく違ってくるはずだ。だから、連載が一冊の本になるときには、改題が行われることもしばしばだ。また単行本から文庫になるときにも、まったく別の本のような題名に変わっていることもある。
内容も最初から腰の引けたような、毒にも薬にもならないような文章を書いてはいけないと筆者はアドバイスしている。こんなことは、決して学校では教えてくれないものだ。
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クリエイティブとは、新しい意味が生まれるということ。
「人を動かす文章術」齋藤孝著より。
ふだん何気なく使っている言葉だが、そういう意味合いがあったのだ。それはささやかなものでもよかった。そして筆者は、その瞬間を拍手で祝う習慣をつけることで、気づき力上がるという。
文章を書くなら、そこには発見、新しい認識、気づきが盛り込まれた文章であるべきだった。まずは、タイトルも興味を持つものにすべきだった。これはつかみというものだ。
筆者はまた面白いことを言っていた。それはエッセイも企画書と同じ気持ちで書くといいという。そこには、新しい発見や認識をはっきりと打ち出してほしいからだそうだ。
日常的にエッセイを書く習慣をつけることで、ものの見方もガラリと変わるようだ。
ここには、話し言葉から文章への訓練というまとめがあった。1、メモ。2、まとめる。3、エッセイ。という手順で書けばいいのだった。