今の時代、言葉のパッケージ化が常識で、・・・

「テレビ、このやっかいな同居人」阿久悠著より。
この言葉のパッケージ化というのが実にユニークな表現だった。つまりこれは、ある程度関連がある言葉を簡単にひとまとめにしてしまうことだった。それが頻繁に行われているが、必ずしもそれがいい風潮とは限らずむしろマイナスに働くこともあると阿久さんは指摘していた。
その一例として3Kをとりあげていた。これはかなり前にマスコミで取り上げられた言葉だった。意味はきつい、汚い、危険な職業をさしていた。こんな言葉遊びである仕事をくくられてしまうのはちょっとおかしいのは確かだ。
仕事の内容をしっかりと知る前にこんな言葉(3K)などと決めつけてしまうこと自体が不自然でもあろう。むしろ他人事で無責任ささえも感じられてくる。3Kが先にくることで、仕事を真剣に考えてみようとしなくなってしまい、敬遠されてしまうことになるようだ。
あらゆるものがこのように、簡単な言葉でパッケージされてしまうと別の価値観が生まれてしまいそうだ。最近ではアラフォーとひとくくりでまとめられ、それで一安心してしまったりするかもしれない。
ある一部の人たちにはそれでいいかもしれないが、むしろ将来の子育てなどを考えればそうそう安心はしていられないかも。で、あせって“婚活”を始めてみたり。まあ、あまり惑わされずに自分の価値観で生きられたらいいんですがねぇ・・・

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流行はいつかすたれるものだが、Vサインはすたれることがない。
「テレビ、このやっかいな同居人」阿久悠著より。
先日子どもの学校の卒業DVDを観ていたら、カメラを向けられた生徒のほとんどはVサインをしていたのだ。とくに仲間と一緒の時は必ず誰かがVサインをしている。別に自分だけ目立とうとしているとは思えない。
阿久さんは、地球上のどこの国の人でも、テレビ・カメラを向けられるとほとんど条件反射のようにVサインをサッと出す、というが本当だろうか。私は新宿西口方面で仕事をしているが、しばしば外国からの旅行者が高層ビルを前に写真を撮影している姿をみかける。しかし、彼らのほとんどはVサインなどはしていない。
むしろVサイン率は日本人が最も多いのではないだろうか。子どものプリクラを見れば、必ず誰かがVサインをしている。きっと無意識のうちに腕が上がってしまうのだろう。
Vサインのそもそもは、第二次世界大戦中にイギリスの首相チャーチルが勝利宣言をしたときが最初だったという説が残っている。そのうち、平和を示すピースサインともなっている。
若者の多くはそんな意味さえ知らずに、いつもVサインをしているのだ。また、当然ながら、年配の人たちに比べてこのVサイン率は若者の方が高い確率でやってしまうものだろう。私などはもう面倒になって手を上げる気もしない・・・な。