入社と入門の大きな違い、それがお茶くみである。

「煮ても焼いてもうまい人」立川談四楼著より。
落語の世界では、お茶くみは単に適当にお茶を出すというだけはない要素があるようだ。とくに前座というわれる修行時代にはお茶くみは修行にもなっていた。先輩の落語家の好みを知らなければならない。
熱い、ぬるい、濃い、薄い・・・さらには出すタイミング。また薬を飲むから白湯をくれとも言われる。そればかりか、着物をたためとか、着替えを手伝えといわれる。すると、そのうちこんなことまでやらなきゃならないのか、という疑問まで持つようになってしまう。
しかし、それらはすべてが修行なのだ。効率を考えたらやってられない。しかし、落語の世界では効率の悪さと戦うことが修行だという。現在真打、名人といわれる人たちもその修行に打ち勝ってきた人たちだったのだ。
一般の会社では、今でもお茶くみということが行われているのだろうか。たとえあったとしても、それは別に修行でもなんでもないだろう。せいぜい自動給茶機か自動販売機が備えられていて、飲みたけりゃ勝手にどうぞ、というスタイルではないだろうか。
落語でいう前座の修行は客商売をしてる場合にも共通していそうだ。常連のお客さんがいれば、それぞれの好みを知って商品やサービスをタイミングよく提供できれなければ、本物のプロとはいえないだろう。そのためにはやはり修行の期間がが必要といえそうだ。
とはいっても、落語家でも修行の期間を見事にこなしたとしても、本当いい(プロの)落語家になれるかどうかはまた別問題のようだ。そこが厄介なところ。
ついでながら、野球でいえばいくら二軍でいい成績を残したとしても、一軍で活躍できなければプロである意味もなさそうだし。(これを書きながら、ふと先日二軍でジャイアンツと決別宣言した桑田投手をふと思い出してしまった・・・)